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全日・和田京平レフェリーを変えたジャイアント馬場さんからの啓示 札付きの不良が「王道の番人」に

東スポWEB 2024年8月25日 10時5分

全日本プロレスの和田京平名誉レフェリー(69)は、今年で前人未到のレフェリー生活50周年を迎えた。創設者の故ジャイアント馬場さんから全幅の信頼を寄せられ、黄金期の「四天王プロレス」を支え続けた、まさに「王道の番人」である。実に半世紀もの間、全日本の看板を守り続けてきた和田氏の胸中を直撃した。

中学時代から札付きの不良だった。東京・足立区出身で定時制高校を1年で中退するとケンカに明け暮れ、窃盗、シンナー、恐喝にも手を出した。だが、本人は「皆が言うほど悪くはなかった。ケンカはやったけど、俺は『もうやめとけ』と止める側だった。今、思えばその頃からレフェリーやってたんだよ。昭和のワルと今のワルは質が違う。今なら『振り込め詐欺』とかやってたんじゃないかなあ」と冗談交じりに振り返る。

豆腐屋、ペンキ屋、電気屋…職業も転々とした。1973年5月に働いていた運送屋が全日本のリング運搬を手掛けていたことが、人生の転機となった。「よく分からないまま巡業につくようになった。あのままなら俺は絶対に堅気になれなかった。この年まで生きてこられなかったかもしれない。馬場さんに会ったことで人生が変わったんだ」

リング設営の合間にディスコ音楽に合わせて踊っていると、馬場さんから「お前リズム感いいな。レフェリーやれ」と言われた。雲の上の人から初めてかけられた言葉だった。道場での練習を経て74年1月にレフェリーデビュー。「まさに天からの啓示だった。俺は寝る間以外は裏表なく働いた。それを馬場さんはちゃんと見ていてくれたんじゃないかな」と和田氏は述懐する。

当時のメインレフェリーはジョー樋口氏で年間約150大会。和田氏は前座を裁く日が続くも、元不良らしい迫力と毅然とした態度で誰からも認められる存在となった。そして88年にジャンボ鶴田対天龍源一郎戦を裁く。実に15年目でのメイン昇格だった。

90年に天龍らが大量離脱して団体が危機を迎えると、馬場さんのお付き役として「御大あるところに京平あり」とまで呼ばれるようになった。忘れられない思い出がある。92年、社員旅行でハワイを訪れていた最中に父親が急逝したのだ。御大は「帰れ」と言ったが、和田氏は御大のお付きがあるため、帰国を断った。

「馬場さんも修業時代に父親を亡くしてレイを海に流して追悼したらしい。『これからは俺たちを親と思え』とレイを買ってくれて、真夜中に1人、海に流してオヤジをしのんだ。それからはずっと一緒。親同然ですよね」

90年代には黄金期の「四天王時代」が訪れる。三沢光晴、川田利明、小橋建太(当時健太)、田上明に秋山準を加えた「激しく厳しい」プロレスだ。

和田氏は「馬場さんが『やはりプロレスは完全決着、3カウントでなければいかん』と言ったのが契機だった。ジョーさんにも『オレにはあいつらの試合はもう無理だ。お前に任せる』と言われた。やってるうちに本人たちもテンションが上がってどんどん3冠戦や世界タッグの試合内容はエスカレートしてお客さんは熱狂した。オレもあの時代を支えていたという自負はありますね」と胸を張る。

この時期には馬場さんから「お前は日本一、いや世界一のレフェリーだな」と最高の賛辞を得た。しかしその後は99年に馬場さんが逝去。鶴田さんの死(2000年)、00年6月には三沢らの大量離脱というつらい事件が続いた。

「馬場さんが亡くなった時は『長い間、お世話になりました』と枕元で頭を下げた。一瞬、涙が出たけど、後はこれからをどうするかで頭がいっぱいになった。ただ『(夫人の)元子さん(18年没)は俺が最期まで守ります』という誓いは守り抜いたと思う」と和田氏は言う。

ノアを旗揚げした三沢らには「来る時が来たという気持ちだった。大木が倒れたら、周りの小さな木に光が当たり大きく育つのは当然。だから仕方ないなと。今の全日本も大木から分かれた枝の木だから頑丈で大丈夫ですよ」と受け止めている。

その後は元子さん体制から数回の社長交代を経て、11年には一度離脱するも、わずか2年で名誉レフェリーとして復帰。今年50周年を迎えた。7月、8月にも3冠戦を裁き、7月のマリーゴールド両国国技館大会でWWEのイヨ・スカイ対林下詩美戦を裁くなど、他団体からの信頼も厚い。

「今は(前)3冠王者の安齊(勇馬)、宮原(健斗)、青柳優馬と亮生、斉藤ブラザーズと充実している。全日本の名前は消しちゃいけないし、消えないと思う」と確信する。

今年11月には古希を迎えるが「2万試合は裁いたかなあ。そこまでいってないと言うやつがいたら2万回やってやるよ(笑い)。次は55周年、60周年が目標。“第2の和田京平”が出てくるまではやめられないね」と笑顔を見せた。

50年を過ぎても、和田氏は自分の鼓動を確認するように、連日硬いマットを全力で叩き続ける。 (敬称略)

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