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【ザ・グレート・カブキ連載#6】〝年上の後輩〟サンダー杉山の鼻にパンチ一発 マサ斎藤とは気が合ったんだけどね

東スポWEB 2024年8月27日 16時15分

【ザ・グレート・カブキ 毒霧の真実(6)】リングネームが「高千穂明久」に変わった1965年には、前年の東京五輪にアマチュアレスリング日本代表として出場していたサンダー杉山とマサ斎藤が鳴り物入りで日本プロレスに入門してきました。後輩ではあるけど、2人とも年上だったから呼び捨てにしないで「斎藤さん」とか「杉山さん」とか呼んでいましたよ。

そしたらある日、練習場でサンダー杉山が自分のことを「オイ、坊や!」って呼んだんです。まだサンダー杉山は日プロに入って1か月くらいだったから「コノヤロー」と思ったけど「何?」って言ったら「練習やろう」って。だから「いいですよ。プロレスですか? 何やるんですか?」って聞いたら「なんでもいい」って言うからリングに上がって、マサやん(マサ斎藤)に鐘を鳴らしてもらってね。

すると、サンダー杉山がスーッと前に出てきたから、鼻にパンチを入れたんだ。そしたらブワーッと鼻血を出して「ウー、ウーッ」とうなっていてね。それで「すいません。これ、プロレスですけど、まだいきますか」って言ったら「分かりました、分かりました」って。そこからは「坊や」と呼ばれることはなかったですよ(笑い)。

マサやんとは気が合ってね。巡業中も「飲み行く?」って、よく一緒に行きましたよ。試合も手が合って、バッシン、バシンいったっけ…。マサやんも「どこそこが痛い」とか泣き言は一切言わないレスラーで。まあ元気が良かったですよ。五輪に出てバリバリにやっていた中で、日プロに入ってきたから。当時はお相撲上がりの選手が多くて、レスリングで五輪に出た選手っていうのは初めてだったんじゃないかなあ…。だからほかの選手とは動きがまったく違ったから“さすがは五輪出る人だな”って思ってましたね。

だから自分もマサやんにいろいろと教わりましたよ。自分が先輩とはいえ、やっぱり大学に行ってキチンとしたレスリングを覚えてきている人と、柔道をやっていたとはいえ、15歳でプロレスに入った自分とでは違いましたから。この時に基本的なレスリングのスタイルをしっかりと教えてもらったんです。タックルだったり、いろいろ。それがその後、生きた部分は大きかったです。

例えば米国に行っても「あ、こいつアマチュアレスリングを知ってるな」ってなると、向こうも一歩下がりますから。試合の内容も変わってくるんです。その話はまたおいおい…。この調子で日々を過ごしていたけど、日プロの上層部では新たな動きが出ていました。豊登さんを中心にしたメンバーが離脱し、そこに米国武者修行から帰国したアントニオ猪木さんが合流し「東京プロレス」を旗揚げしたんです。

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