Infoseek 楽天

カズとラモスのひと言で…〝オフト政権〟誕生 日本代表史上初の外国人監督秘話

東スポWEB 2024年8月28日 14時4分

【多事蹴論91】日本代表が史上初めて外国人監督を採用した裏事情とは――。1968年メキシコ五輪で銅メダルを獲得した日本代表はその後、世界大会に出場できない日々が続き、85年にはメキシコW杯アジア最終予選に進出するも宿敵の韓国に敗れるなど“冬の時代”を過ごしていた。そして、迎えた91年3月に日本サッカー協会の理事を務めていた川淵三郎氏が強化委員長(現技術委員長)に就任することになった。

当時は横山謙三氏が日本代表監督を務め、イタリアW杯アジア1次予選で北朝鮮に敗戦。ふがいない戦いに批判が噴出していたが、責任者の川淵氏は「日本の実力的にもやむを得ない」と監督交代までは考えていなかった。しかしバルセロナ五輪出場を目指したU―23日本代表(横山監督が兼任)もアジア予選であっさりと敗退。監督交代論が高まっていた。

そんな中、横山ジャパンで初代表入りしたMFラモス瑠偉とカズことFW三浦知良(57=アトレチコ鈴鹿)のひと言が監督交代を考えるキッカケになったという。川淵氏は「ラモスとカズが僕のところに来て『代表手当を出してほしい』と言い出したんだ。アマチュアだからムリと断ったんだけどね。でもプロを経験している2人の言葉で日本代表にもプロフェッショナルが必要なのか、と感じた」という。

さらに川淵氏は「93年にプロのJリーグがスタートするし、日本代表にもプロ監督が必要と思ったんだ。プロ選手としてやってきたラモスやカズたちを束ねるにはアマの日本人指導者では限界がある。だから外国人にしようと考えた」。そこで浮上したのは日本リーグのマツダ(現広島)やヤマハ(現磐田)でコーチを務めていたオランダ人指導者のハンス・オフト氏だった。

川淵氏はマツダとヤマハの関係者にオフト氏の人柄や指導法を聞いた上で「日本人選手にも合う」と判断。オランダ1部ユトレヒトのGMをしていたオフト氏に会うためにオランダへ飛び、日本代表監督の就任に向けて前向きな回答を得たという。ただ、当時は各国も含めて外国人が代表監督に就任するのは一般的ではなかったことや「コミュニケーションが取れない」などの理由から反対の声も多かった。

川淵氏は「さすがにどうしようかと悩んだね。でも長沼(健・副会長)さんたちに相談すると『好きなようにしろ』って言ってくれたんだ」。重鎮から“お墨付き”を得て日本代表初の外国人監督に就任し“オフトジャパン”が誕生した。新監督はチームの規律を重視することで結束力を高めると、92年夏のダイナスティカップに優勝。秋にはアジアカップを初制覇し日本に初めてのビッグタイトルをもたらした。

93年4月に始まった米国W杯アジア1次予選を勝ち抜き、同年10月には「ドーハの悲劇」で知られるW杯アジア最終予選で敗退したが、オフト監督の就任で日本は飛躍的な進化を遂げた。 (敬称略)

この記事の関連ニュース