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【フェンシング】江村美咲が告白 涙の裏にあった〝トラウマ級〟の苦闘

東スポWEB 2024年9月5日 11時5分

涙の裏にあった想像を絶する苦悩とは――。フェンシング女子サーブルの江村美咲(25=立飛ホールディングス)は、パリ五輪の団体で銅メダルを獲得。個人戦で無念の3回戦敗退に終わったが、五輪では男女を通じてサーブル種目で初の表彰台を勝ち取った。日本選手団旗手として注目を集めたエースは、大舞台で日々葛藤と向き合っていたという。自ら「トラウマ級」と表現する苦闘の中で感じた率直な思いを、本紙の単独インタビューで打ち明けた。

――パリ五輪は団体戦で銅メダルが決まると、目には涙が光っていた

江村 本当にトラウマになるレベルで、苦しかった方の印象が強い。最後の団体戦はみんなで3位になれて感謝や安心を感じたけど、個人戦が終わってから団体戦までが本当に難しかった。特に団体戦は自分が活躍できなくてチームが負けてしまったらという怖さや、攻撃的な言葉がたくさん飛んでくるかもしれない怖さがあった。開き直ってやるしかないけど、ずっと怖いなと思いながら踏ん張っていました。

――パリ五輪開幕1年前の本紙インタビューでは「全力勝負を楽しむ」と話していたが

江村 楽しむことはできなかったかな。自分は試合をちょっとゲーム感覚で楽しむ感覚があるけど、パリ五輪は自分のコンディションが良くなくて、体が動かなかったのでそれどころじゃなかった。いつもなら狙い通りできるところも、かみ合わなかった。それが自分のタイミングのミスなのか、相手が攻撃を先読みしていたのかはわかりませんが…。

――日本選手団の旗手を務めた難しさもあったのでは

江村 正直あったかもしれないけど、引き受けると決めたのは自分。良くも悪くも注目されるのはわかっていた。結果が出なかった時にたたかれることも、もちろん肯定はしないけど、腹はくくっていた。人の意見に左右されて自分がしたいことをしないのはもったいないし、知らない人の批判の意見よりも、身近にいる大切な人たちのための選択をした。怖さがゼロかと言われたらウソだけど、心の準備はしていました。

――五輪を通じてスポーツの価値を考えさせられた

江村 日本はスポーツの見方に対して、理由はわからないけど、勝てばいい、負けたら悪いみたいな考えの人が多い印象がある。選手たちは目標に向けて頑張っているので、勝てばいい、負けたらよくないのもわかるけど、それだけじゃないスポーツの価値はたくさんある。今のスポーツ界は五輪のメダルがすごい重要視されていて、今回メダルを持ち帰れたのはうれしいけど、五輪にない競技もたくさんある。じゃあ、その競技の人たちの頑張りが意味ないのかと言ったら全然そんなことないと思っています。

――パリ五輪後は積極的にメディアや公の場に姿を見せている

江村 いろんな人に自分のことを知ってもらえれば、届けられる声も多くなるのではという思いがある。正直、自分はテレビとかも得意ではないし、もっと得意な人がいるならお任せしたいくらい(笑い)。でも、ここまでフェンシングにスポットが当たる機会もなかなかないので、フェンシングの普及のためにも貢献していきたい。それに五輪前はなかなか取材を受けることができなかったので、おわびと感謝を込めて、今は自分が頑張ろうかなと思っています。

――4年後のロサンゼルス五輪への思いは

江村 パリ五輪の悔しさはあるので、ロス五輪でリベンジしたい気持ちはあるけど、五輪が本当にトラウマ級にしんどくて、五輪にまたすぐに出たいとは言えないのが正直な気持ち。でも、ちょっと時間がたてば、自分のフェンシングともっと向き合っていけると思う。心身ともに回復してからは、やっぱり目指したい舞台ではある。全日本選手権(14~16日、静岡・沼津市総合体育館)には出場する予定。全日本でパリ五輪までのサイクルが終わるという感覚なので、そこでやっとひと息つける感じですかね。

【パリ五輪・個人戦は3回戦敗退】世界選手権覇者として挑んだパリ五輪の個人戦は3回戦で韓国選手に敗戦。本調子とはほど遠いパフォーマンスと、一部からの心ない声に「自分でも自分の感情がわからないような状態が続いていた」と明かす。それでも、団体戦ではエースとしてチームの銅メダルに貢献。「みんなが頑張っていたので、自分が台無しにするわけにはいかないと思った。初めての有観客での五輪だったので、お世話になった方や家族、チームメートの家族などの応援が力になった」と感謝を口にした。

☆えむら・みさき 1998年11月20日生まれ。大分県出身。小学3年でフルーレを始める。中学入学前にアニメ作品「ウサビッチ」のジグソーパズルの景品目当てで出場したサーブル大会で優勝したことがきっかけで同種目への転向を決断した。中大卒業後の2021年4月からはプロ選手として活動し、同年東京五輪に出場した。22年世界選手権では個人で日本勢初の金メダルに輝くと、23年大会も頂点に立った。24年パリ五輪は個人で3回戦敗退に終わるも、団体で銅メダルを獲得した。170センチ。

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