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【菊地敏幸連載#34】あの野村克也さんを1イニングで3度もバックネットまで走らせた男

東スポWEB 2024年9月6日 11時6分

【菊地敏幸 辣腕スカウトの虎眼力(34)】2003年のドラフトで阪神に自由枠で入団した早大・鳥谷敬をいかに口説き落としたのか。そこには担当スカウトの私だけではなく、タッグを組んで頑張ってくれた池之上格スカウトの存在が大きく作用しています。

池之上は鹿児島県屈指の進学校である鶴丸高出身です。校名は島津氏の居城であった鹿児島城の愛称「鶴丸」に由来します。鹿児島県で最も古い歴史を持つ高校で、旧日本軍将校から自衛隊幕僚長、警視総監、国会議員など数々の人材を輩出しています。

だから何といっても頭がいい。池之上の母校では大学に進学せず高校から就職したのは彼一人だそうです。就職といっても1972年のドラフト3位で投手として南海ホークスに入団しています。投手として登録されていたのは最初の7シーズンのみ。実際に登板したのは4年目からの3シーズンで22試合、2勝0敗という成績でした。

ただ、武勇伝じゃないけど、池之上は記録を持っているんですよ。76年7月25日の近鉄戦で1イニング3暴投の日本記録と、1イニング11失点のパ・リーグ記録を樹立しちゃってます(笑い)。捕手は野村克也さんだったわけで、あの大物選手を1イニングで3度もバックネットまで走らせたんですよ。

80年からは内野手に転向。83年には120試合に出場して打率2割6分5厘、7本塁打とレギュラー級の活躍をしました。身長182センチで堂々たる体格なんですが、バットをものすごく短く持って体を縮こませて打つ個性的な選手でした。

そんな池之上は87年に大洋ホエールズに移籍し88年限りで引退。大洋のスコアラーを経て90年に古巣の南海の後身のダイエーでスカウトとしてのキャリアをスタートさせました。特に法大OB、監督でもありバルセロナ五輪野球代表監督も務めた山中正竹さんにガッチリ食い込んでいました。

阪神OBで元ダイエー監督の田淵幸一さんと山中さんがバッテリーだったご縁も大きかったでしょうね。田淵監督からの紹介をしっかり生かして、池之上は自他ともに認める山中さんと一番親しいスカウトになりました。山中さんも池之上のことを信頼していましたね。これはもう私なんかでは入っていけない関係です。

そういう事情もあって日本代表チームとのコネクションはすごかったですね。代表合宿や大会もフルマーク。アマ球界の重鎮たちとも壮大なネットワークを構築していました。練習や試合を熱心に見るだけでは飽き足らず、合宿ではホテルにも張り込んで選手や関係者とコミュニケーションを取るんです。私も「菊地さんも行かない?」と誘われたけど「行かない」と即答です。

私もダイエーに入団した和田毅や鳥谷の獲得に乗り出した時は内緒で隠密行動を取りましたよ。でも池之上は水面下でそれ以上の別行動をしていました。選手が買い物に来るコンビニに張り込んでコミュニケーションを取ったりね。選手が所属するチームの監督とも親しくなったり、熱心なスカウトでした。

こちらからの相談、監督の相談も親身になって受ける間柄となり、どんどん信頼関係を築いていきましたね。池之上と一緒にタッグを組み鳥谷に阪神を選んでもらえた事実に感謝です。

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