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来春引退の里村明衣子「13人いた同期は…」 壮絶な新人時代を経て〝女子プロ界の横綱〟になるまで

東スポWEB 2024年9月10日 11時2分

世界最大のプロレス団体、米「WWE」と契約する〝女子プロ界の横綱〟こと里村明衣子(44)が来年4月に引退する。長与千種のガイア・ジャパン1期生としてプロレスの門を叩き、エースとして活躍。今では2006年に旗揚げしたセンダイガールズ(仙女)の社長を務めながらWWEの選手兼コーチを務めるなど、世界でも輝きを放っている。唯一無二の存在となった里村の原点はどこにあるのか。ガイアで過ごした壮絶な新人時代に迫った。

――プロレスとの出合いは

里村 中学2年生の時に新日本プロレスを見たのが初めてです。当時は長州力さん、藤浪辰爾さんもいて、闘魂三銃士が中心でしたね。小島聡さんがまだヤングライオンで、平成維震軍にものすごいハマりました。その時、私は女子プロレスの存在を知らなかったので、見た瞬間に「私が世界で初めての女子プロレスラーになって団体をつくろう」と思ったんです。でも、レンタルビデオ屋さんに行ったら、全日本女子プロレスのコーナーがあって。そこで初めて女子プロレスの存在を知りました。

――何を借りて見た

里村 全女の横浜アリーナ大会(1993年4月)で北斗晶さんと神取忍さんの試合を見て、ものすごい衝撃を受けたんです。世の中にこんなかっこいい女性がいるんだと思いましたね。そのころ、ちょうど「リングの魂」(テレビ朝日系)で全女の新人を追う企画をやっていて。チャパリータASARIさんが、北斗さんのテーピングを忘れたんです。でも、北斗さんは叱るんじゃなくて、言葉で言い聞かせている姿に愛情を感じたんです。もう私が目指す場所はここしかないと思いました。それから1年間、新潟で興行があると、見に行けるものは全部行きました。FMWや馳浩さんのトークショーも行きましたし、かなり熱心な痛いファンだったので、ホテルの出待ちとかまでしてました。誰の? 小島さんです(笑い)。

――15歳でガイアに入門した

里村 3歳から柔道を始めて、中学3年生の時には新潟県で優勝。全国大会に出た肩書を持って、書類を送ったら受かったんです。あのころはインターネットがなくてテスト内容もわからなかったので、とりあえずスクワットを1000回やっておけば大丈夫だろうなと思って、毎日やってたんです。書類選考で100人に絞られて、実際道場に行けたのが45人ぐらい。実際のテストではスクワットは200回で余裕でトップの成績で合格しました。

――95年4月にデビューし、長与の付け人になった

里村 同期は13人いて、長与さんに指名をいただいて付け人になりました。洗濯、スケジュール管理、試合の準備をしてたんですけど、失敗ばかりしてました。たぶん10回以上付け人を降ろされてます。そのたびに同期が指名されるんですよ。それがまた悔しくて、長与さんの自宅まで謝りに行って、夜中でも許してもらうまで、ひたすら家の前で待ってましたね。

――1番の失敗は

里村 大阪大会の日、会場に着いた時に、長与さんのガウンを忘れてきてしまったことに気がついて。KAORUさんに「道場まで取りに帰れ」って言われて、泣きながら新幹線に乗って新横浜の道場まで戻って、自分の試合にもギリギリ間に合いましたね。でも、バカだから、違う会場とかでも同じことを3回以上やりました…。新幹線代はもちろん自腹です。あとは先輩のコスチュームを外に干していると盗まれることがよくあって。同期でお金出し合って、同じコスチュームを自腹で作ってお返ししたり…。その時の給料? 光熱費と食費は会社に負担してもらっていましたけど、2万3000円です。すぐになくなっちゃいました。

――3禁など規則も厳しかった

里村 道場の周りは畑でコンビニまで行くのに15分ぐらいかかりました。男、お酒、たばこは禁止で門限が夜の8時。コンビニに公衆電話があったので、親に電話したい時は何時何分に出て行って何時何分に帰るのか、ノートにメモもしなきゃいけなかった。しかも団体の方針で、他団体の選手や記者の方とも交流を禁止されていたので、鎖国状態で軍隊って言われてました。その年に地下鉄サリン事件(95年)があったので、いつしかガイアの道場は「第7サティアン」っていうあだ名がついてました(笑い)。でも、そのおかげでどこの会場も超満員。業界1番と言われていた全女の人気を抜き始めたんです。

――練習も厳しかった

里村 よく「寝ずに練習しろ」って言われてて、朝6時半から練習を始めて、お昼休憩1時間取って、夕方6時まで練習。1日10時間以上練習してました。練習が終わると出かける気力もないので、コンビニに行くのが唯一の楽しみ。半年で13人いた同期は半分になってました。

――2001年12月にAAAWシングル王座を初戴冠した

里村 アジャコングさんからベルトを取りました。17歳だった時に初めてアジャさんと対戦して、試合後に「神様は前髪しかないから、後ろからつかもうとするんじゃなくて、前を回ってチャンスをつかもうとしなきゃダメだ」って言っていただいたんです。アジャさんの言葉が温かくて、その時に絶対この人を倒すって決意した。うれしかったですね。でも、チャンピオンになってからも後輩が次々に辞めるので、解散するまで自分がトップにいながらも、下積みの仕事は変わらずやってました。それを耐え抜いたので、仙女を立ち上げる時も、スタッフ3人分くらいの仕事を1人でこなすことができました。

――長与との思い出は

里村 長与さんは練習後や大会後、夜中3時までいろんな団体の試合やプロレスの雑誌とかをひたすら見てて。全然寝ないんです。本当にこの人宇宙人じゃないかって思ってました。長与さんが起きている間は私も起きてなきゃダメ。一緒にずっと見てましたよ。「これ見てみろ、このここの技がな」ってずっと解説していただいて。やっぱりクラッシュ・ギャルズで一世を風靡して一時代をつくられた方っていうのは、こんなに努力されているんだなって目の当たりにして勉強になりましたね。

――今後の目標は

里村 私にとってガイアでの経験は宝です。あの10年を耐えてこれたことが今の自分をつくっています。私は女子プロが人気だった94年に入門して、全女が解散していくどん底までを見た。そこからちょっとずつ這い上がっていくところも経験してきました。でも、クラッシュ・ギャルズが社会現象になった一番いい時代は経験してないので、死ぬまでに女子プロレスの全盛期をつくってみたい。自分でスカウトして大スターを生み出して、武道館とかが超満員になるところを見るまでは死ねない。それが今の目標です。(インタビュー・木元理珠)

☆さとむら・めいこ 1979年11月17日、新潟・新潟市生まれ。95年4月15日、長与千種が旗揚げしたガイア・ジャパン後楽園ホール大会でデビュー。2005年に団体が解散したが、新崎人生に声をかけられ、06年にセンダイガールズ(仙女)を旗揚げ。仙女を軌道に乗らせ、13年度の「プロレス大賞」女子プロレス大賞を初受賞した。19年5月からはNXTの女子部門臨時コーチに就任し、21年1月にWWEと契約。同年6月にNXT・UK女子王座を初戴冠した。157センチ、65キロ。必殺技はスコーピオライジング。

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