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【中日】星野監督〝グラウンドに出たら戦争だ!〟 恐怖の会話禁止令に…仁村編成統括「兄にもあいさつしなかった」

東スポWEB 2024年9月14日 6時3分

中日ドラゴンズの応援大使を務めるSKE48の熊崎晴香(27)が中日・仁村徹編成統括(62)を直撃。ドラゴンズ黄金時代を知る仁村氏に、当時の中日の強さの秘密について聞いた。第1回では1987年から91年、96年から2001年に指揮を執り、2度のリーグ優勝に導いた星野仙一監督にフォーカス。仁村氏が語った闘将の魅力とは――。

【仁村編成統括&SKE48熊崎晴香対談(1)】

熊崎 ドラゴンズの歴史について、仁村さんにいろいろとお聞きしたいと思います。よろしくお願いします。

仁村 何でも聞いてください。

熊崎 仁村さんは1983年のドラフト2位で中日に入団。87年からは星野監督のもとでプレーされています。星野監督はどのような方でしたか。

仁村 みんな怖いとか言っていたけど、僕は全然そんなことなくてね。というのも大学時代にすごく厳しい監督(東洋大・高橋昭雄監督)のもとでやっていたので(笑い)。星野さんは厳しかったけど人間味のある監督さんでした。選手を怒る時も〝お前ならできるはずだ〟〝期待しているから叱るんだ〟という思いがあったと思います。

熊崎 愛情があるからこそ厳しく指導された。

仁村 人をちゃんと見ていましたね。山本昌に対しては結構厳しかったですけど、将来のチームを背負ってくれる選手になると考えていたからだと思います。1989年に山本昌が9勝した後、なかなか勝てなかったんですよ。(9月23日の阪神戦で)山本昌が先発して7回まで3点リードしていた。当時は郭源治という絶対的な守護神がいたけど、星野監督は山本昌に最後まで投げさせたんです。その結果、8回に4点取られて負け投手になった。みんな最初は「何で代えないんだろう」と思ってましたけど、監督の意図するところはやっぱり伝わりますよね。星野監督は彼の成長のためなら、1試合捨ててもいいと考えていたんだと思います。しかも、まだ10勝するチャンスがあったのに、星野監督はその試合のすぐ後に山本昌をアメリカへ再留学させたんです。2桁勝つことよりも、さらに成長させようとした。そういうのも愛情じゃないですか。

熊崎 すごいですね。

仁村 もちろん試合に勝つというのは大切だと思うんですけど、選手を育てるというのも監督の重要な仕事。星野監督は長期的な視点でチームづくりを行ってましたね。

熊崎 星野監督時代の中日は、試合前に相手チームの選手と話しちゃダメだったと聞いたんですけど、本当ですか?

仁村 一切ダメです。当時、巨人には兄(仁村薫)がいたんですけど、試合前には全くしゃべらなかった。あいさつもしないです。

熊崎 家族でもダメなんですか!?

仁村 ダメです。話すと罰金だから。例えばヒットや四球で一塁に出るじゃないですか。相手チームの一塁手が話しかけてきても、こっちはしゃべれない。監督に分からないように中日ベンチに背を向けて「頼むから話しかけないでくれ」って言ってました。「グラウンドに出たら戦争だ、真剣勝負だ」ということを植え付けるためにチームではそうなってましたね。

熊崎 今だと他球団の選手とも仲良くして、お互いに技術を交換して高め合っているという印象がありますけど、そのころは違ったんですね。

仁村 乱闘も多かったからね。ピリピリした緊張感というかね。当時の中日の4番は落合博満さん。落合さんの打席の時に内角高めの顔面付近にボールが来ようものなら、ベンチの雰囲気が一気に変わった。そうなった瞬間、もう選手はみんな臨戦態勢。全員がベンチで前傾姿勢になって「次も同じようなボールを投げてきたら行くぞ!」と。

熊崎 最近はプロ野球の試合で乱闘ってあまり見ませんけど、お話を聞いていると落合選手を守ろうという仲間意識がすごかったんですね。

仁村 うちの4番に何してくれるんだっていうのはあったね。4番がぶつけられてケガしたら戦力が落ちてしまう。みんなで落合さんを守ろうという気持ちは強かったですね。乱闘になると、星野監督は真っ先に飛び出していったしね。一番ビックリしたのは巨人戦であの王さんに食ってかかっていったことですよ。(※)

熊崎 王さんにですか!?

仁村 あの世界の王さんですよ。王さんもビックリしたと思うよ。でもあの時、この監督はすごいなと思ったんですよ。勝負事になったら、相手が誰でも遠慮せずに向かっていく。みんなにそういう教育はしてましたよね。

熊崎 逆にそこまでやることが当時のドラゴンズの強さにつながっていた。

仁村 そうなんです。やられたらやり返さなきゃいけない。勝負事なんでね。そのへんの負けん気をうまく引き出していた。闘争心を植え付けられましたね。そして選手としては、星野監督に守られてる感じがありました。うちの選手にこんなことしたら絶対に許さんぞという。自分たちのことを大事に思ってくれてるのは感じましたね。

※1987年6月11日に熊本で行われた巨人―中日戦で7回に中日・宮下がクロマティーの背中に死球をぶつけると、激高したクロマティーは宮下の顔面に右ストレートを叩き込み、両軍入り乱れての大乱闘に発展。星野監督は拳を突き上げて巨人・王監督に「グーはダメでしょう!」と迫った。

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