【プロレス蔵出し写真館】2022年10月1日に79歳で亡くなったアントニオ猪木さんの三回忌法要が今月8日、横浜市の総持寺で営まれた。藤波辰爾や前田日明、船木誠勝、佐々木健介、小島聡ら多くの関係者が参列。
藤波は「現実、怒鳴られることはないんだけど、だらしなくなったら、どっかで活を入れてくださいって感じですよね」と語っていた。
まだまだ現役を続行中の藤波は11月22日に、自身が主宰する「ドラディション」の後楽園ホール大会で〝現役バリバリ〟新日本プロレスの高橋ヒロムと一騎打ちを行う。
さて、藤波は今から33年前の1991年(平成3年)3月21日、東京ドーム「’91スターケード IN 闘強導夢」で、猪木が成し得なかった快挙を達成した。王者リック・フレアーを破り、NWA世界ヘビー級王座を奪取したのだ。
自身の保持するIWGPヘビー級王座を賭けフレアーとダブルタイトル戦を行い、23分6秒、グラウンドコブラでピンフォールを奪い、全日本プロレスのジャイアント馬場に次ぐ日本人で2人目のNWA世界王者となった。
ところが、これが〝幻の〟王座戴冠となってしまう。
その日の試合後、六本木のTSK・CCCホールで行われたさよならパーティーの冒頭、ベルトを手にした藤波をフレアーが祝福。ビッグバン・ベイダーやスティングらにも声をかけられ笑顔を見せていた。テーブル席では長州力、マサ斎藤とダスティ・ローデス、バリー・ウィンダムらが談笑。テレビのゲストで来場していたタレントの菊池桃子も参加していて、若手選手が記念撮影をせがむなどパーティー会場はなごやかなムードが漂っていた。
〝アクシデント〟はパーティーが終わった深夜に起こった。
ローデスとウィンダムが「裁定は無効」と坂口征二社長と藤波に詰め寄ったのだ。「3カウントを入れたのは新日本所属のサブレフェリーのタイガー服部。カウントの直前に藤波はフレアーをトップロープから投げ捨てた。これはオーバーザトップロープの反則行為(写真)。フレアーの反則勝ち。もしくは無効試合だ。ベルトの移動は認められない」とクレームをつけた。
たしかに試合終盤、フレアーがメインレフェリーのアルフォンソに激突して場外で失神。サブレフェリーの服部がカウントを数えた。
ローデスらは「ベルトはWCWが預かり、保留とする」として、ベルトを持ち去ってしまう。
翌22日、午前7時半に坂口社長、倍賞鉄夫取締役が宿舎の京王プラザホテルを訪ね、直談判したがまったくラチがあかず、NWA勢一行は正午発のJAL10便でベルトを持ったまま帰国してしまった。
24日に藤波は自宅でインタビューに応じ「オレは胸を張ってNWA王者と名乗る」とやるせない思いを語った。
翌25日、事務所で緊急役員会が開かれ坂口、藤波、斎藤、長州、調停役のヒロ・マツダらと話し合いがなされ斎藤、マツダを特使として渡米させることが決定した。
プロレスライターの流智美さんは「日本プロレス歴代王者名鑑(ヘビー級シングル編2)」(ベースボール・マガジン社)を著し、この一件を詳しく記述している。
「藤波のお祭りムードをしばらく楽しもう、みたいなムードがありましたでしょ? それが徐々にかき消されていった。結局、新日本は(ジャイアント)馬場に独占されていたタイトルをあそこで獲ったということがすべてですよね。新日本にNWAが移ってきたという点では歴史的な試合でしたからね。NWAというよりWCWですけどね。だからこそ僕はあの代のこと(WCW時代)は十把ひとからげで書いたわけですけどね。馬場さんの時代の権威と比べたら全然、比較にならないくらい軽いものになってしまっていたからね」と流さんは語る。
ところで、5月19日に米フロリダ州セントピーターズバーグでの再戦では藤波とフレアーともに王者を主張していたが、リングアナは藤波を挑戦者とコール。試合は藤波がメインレフェリーの服部と激突するハプニングが発生。直後にフレアーが藤波の背後から急襲。タイツをつかんでエビ固めで丸め込みサブレフェリーのアルフォンソがカウントを数えた。東京ドームと逆の展開となって、この問題に決着がつくこととなる。
「藤波さんは前の年の9月まで腰の痛みで欠場してた。年末に浜松で長州さんに勝ってカムバックを果たした(12月26日、浜松アリーナで長州を破りIWGPヘビー級王座を奪取)。その流れで3か月後にタイトルを獲って完全復活というストーリーがあったわけだから、藤波さんの中ではいい思い出かもしれないですよね」(流さん)
藤波はNWAの歴史に王者として名を刻むことはできなかったが、あの日の東京ドームを沸かせたのは紛れもない事実。記憶に残る〝王座戴冠劇〟だった(敬称略)。