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【ザ・グレート・カブキ連載#25】SWS失敗の原因は「週刊誌」のバッシングと言われますけど…

東スポWEB 2024年10月2日 16時4分

【ザ・グレート・カブキ 毒霧の真実(25)】1990年5月に発足したSWSに参戦し、マッチメーカーを務めるようになった自分は、91年4月1日の神戸ワールド記念ホール大会で元横綱双羽黒こと北尾光司が起こした“事件”の責任を取って、エースの天龍源一郎とともに団体を設立したメガネスーパーの田中八郎社長に辞表を提出しました。

これは受け取ってもらえませんでしたが、自分たちから申し出てマッチメーカーなどの役職から降りることができました。正直、選手たちからの不満をぶつけられて「もう、こんなことやってられない。普通のレスラーでやっていた方が気が楽でいいや」って思ってましたね。今まで散々文句を言っていた連中に「お前らでやれよ」ってすべてを投げたんですよ。

そしたら案の定、何もできない。自分たちの都合しか考えていない変なカードばっかりだから、お客さんもどんどん減っていった。さすがに、まずいと思った田中社長から何度か「またマッチメーカーをお願いしますよ」って言われたけど「もうやりません」ってはっきり断りました。

だけど、田中社長はいい人でしたよ。文句も言わないし。「金は出すけど口は出さない」っていう理想のオーナーというか。だけど、いろんな人の意見を全部マジメに受け止めちゃうんですよ。プロレスのオーナーにありがちでしょ(笑い)。とはいえ、マッチメークもひどくて団体内でまったく統制が取れていない状態だったから、内部崩壊するのは、まさに自然な流れでしたね。

きっかけは92年5月の谷津嘉章の会見ということになるんでしょう。天龍体制への不満をぶちまけて、選手会長の辞任とSWS退団を発表しました。その後の話し合いを経て、結局は天龍率いる「レボリューション」と、それ以外(道場・檄、パライストラ)の連中と2つに分かれてやっていくことになりました。

どっちがお客さんを呼べるかは明白でしたけど。最後の試合は6月19日の長崎大会でした。お客さんは入りましたね。なんで最後が長崎だったかというと、もともと組まれていた日程的にそうなっちゃっただけで「解散興行をやる」なんて雰囲気は一切なし。最後は「おつかれさん」という感じで終わりましたよ。

ちまたではSWS失敗の原因として「週刊誌によるバッシングがあった」とか言われますけど、自分は全く関係なかったと思います。やっぱり試合だから。試合が良ければバッシングだって宣伝になるでしょ。いい試合をすればいいだけなんです。結局、一番大事なところがうまくいかなかったということでしょう。

そうしてSWSは約2年で崩壊。その後、天龍を中心にした「WAR」を旗揚げすることになります。そこで自分は…。

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