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大木金太郎が猪木戦に向けグアムで猛トレ 〝犬猿〟坂口征二とは電車の連結部で手打ち…新間寿氏語る

東スポWEB 2024年10月6日 10時19分

【プロレス蔵出し写真館】大人のためのプロレス専門誌「G SPIRITS」Vol.73の特集は〝1974 昭和49年のプロレス〟。アントニオ猪木VS大木金太郎戦の東スポ提供写真が表紙を飾っていた。この試合はストロング小林戦に次ぐ、猪木と大物日本人対決の第2弾で10月10日、蔵前国技館で行われ、超満員1万6500人の大観衆を熱狂させた。

大木はこの年の8月30日、新日本プロレスの後楽園大会に姿を見せた。全日本プロレスでは前座に甘んじていた大木の来場は、猪木と絡んだといっても東スポでは単なる雑感原稿だった。

9月10日の愛知県体育館に再び現れた大木はリングに上がると、マイクで「力道山先生のつくった日本のプロレスは今3つに分かれているが、誰が日本チャンピオンかわからない。私は(猪木の)NWF世界ヘビー級王座に挑戦する」と、一方的にタイトル挑戦を表明。猪木に挑戦状を手渡し、「挑戦を受けろよ」。そう捨てぜりふを吐いてリングを下りた。

2日後の12日、猪木は挑戦受託を発表。アーニー・ラッドと防衛戦が予定されていた10月10日を大木戦に変更する旨を明かした。

これを受け、大木はさっそく20日からグアム特訓を敢行した。

拠点としていた「グアム第一ホテル」(当時)のマネジャー石川さんが大木のファンでトレーナー兼マネジャーを買って出て、ロードワークでは並走するなどしてサポートした。

また、石川さんは米袋に砂を入れた重さ100キロの〝特製のサンドバッグ〟を製作。猪木のイラストと〝破壊〟の文字入り。〝遊び心〟ある手作り作品に、大木は得意の頭突きやチョップを打ち込んだ(写真)。

大木は29日の調印式に米袋のみを持参して披露すると、猪木はこれを見てニヤリ。インパクトは十分だった。

テレビ中継では試合前の両選手のインタビュー風景が流れ、大木は「自分は〝一発〟という武器を持ってるだけに、どっちみち猪木を破壊してみせると。今夜はもう〝一発〟というのを狙ってるところです」といかにも〝不慣れ〟な様子だったのが記憶に残っている。一方、猪木は「とにかくこの一戦勝ちましてね、私の長年の希望であった日本統一というものを、早く確立したい」と手慣れたふうだった。

試合は大木の頭突きを真っ向から受ける猪木が、「もっと来い」と迫力満点の挑発。大木は得意の一本足原爆頭突きに行くところを猪木のパンチを食らい、最後はバックドロップでフォール負けを喫した。

ところで、猪木VS大木戦を企画したのは、やはり〝過激な仕掛け人〟と呼ばれた新間寿氏だったのだろうか。

「あれは大木さんの方からやりたいって言ってきた」と新間氏が明かす。

「一度会ったら(大木さんは)『韓国でやりたい。大統領(朴正熙=パク・チョンヒ)も見たいって言ってるし、大統領の前でやりたい』と。猪木からも『日本でやるようにしなきゃ駄目だぞ』とクギを刺されていたから、『いや大木さん、それは無理ですよ』って断った。3回ほど大木さんと会って、『新間さん、猪木さんとやったら新日プロは韓国へ来てくれますか?』と言うので『そうなったら喜んで行きますよ』って答えました」

※約束通り、翌75年3月22~27日まで猪木とレスラー数人で韓国に遠征し、5興行を開催した。最終日の27日、ソウル特別市には8000人の観衆を集め大木は猪木を相手にインターナショナル王座防衛戦を行った。

さて、大木は坂口征二との因縁が知られている。坂口は崩壊寸前の日本プロレスとテレビ中継の存続のために、猪木と話し合いを重ね新日本との合併を決め、新団体設立の発表までしていた。ところが急転直下、大木が強行に反対してこの案はポシャってしまい坂口、木村聖裔(後の健悟)、小沢正志(後のキラー・カーン)、大城大五郎の4人のみが新日本移籍という結末となったのだ。

新間氏は、坂口説得が大変だったと振り返る。「『(猪木戦を)やりますから』って言ったら(坂口さんは)『冗談じゃない。私は絶対反対ですから』って口をきいてくれなかった。私は『会社のこと考えてください。東スポの1面取ったり、(専門誌の)ゴングもある。テレビ朝日も視聴率取れるカードじゃないですか。なんとか坂口さん、次はあなたを必ずなにかのビッグイベントで組むから了解してください』って説得して。それで坂口さんは納得してくれた。ただ『私は大木とは会わないから』と言うんです」

それで新間氏は、ある策を仕掛けた。

「千葉だったかな。坂口さんに『話があるので車じゃなく、電車で行きましょう』と誘った。実は後ろの車両に大木さんを乗っけてた。で、坂口さんを連結器のあたりに連れて行って『ちょっと待っててくれ』と言って、そこへ大木さんを連れて行った。坂口さんは顔色を変えて『なんだ新間さん。俺はこんな会い方なんかしたくないよ』『電車の中で偶然会うっていうのもいいじゃないですか』『なにが偶然だ』『いや偶然ですよ。私が乗ったら(大木さんが)乗ってたんで』ってとぼけて。そんなやりとりをした(笑い)。そしたら坂口さんも最後に笑い出しちゃって」(新間氏)

「大木さんも大人だったね。頭下げてくれた。『坂口さん。今までいろんなことで嫌な思いをさせて申し訳ありませんでした』って。坂口さんも『大木さんいいですよ。お互いリングの上でぶつかり合いましょう。これからよろしくお願いします』って言ってくれた」と新間氏は回想する。

大木と坂口は翌年のワールド・リーグ戦で対戦。喧嘩マッチとして知られるが、あくまでプロレスの範ちゅうだった。

新間氏は「(猪木VS大木戦は)あんないい試合できるのかっていう。やっぱりアントニオ猪木ってすごいよね。猪木寛至ってあんまり好きじゃないけど、アントニオ猪木っていう人は本当にすごい人だ」。そう懐かしむ。

新間氏が望んだ東スポの1面だったが、全日プロ大阪大会のザ・デストロイヤーVSアブドーラ・ザ・ブッチャーの遺恨試合となってしまった。版替えしたB版では競馬に替わった。当時の新間氏はさぞや落胆しただろうと想像できる。

今月の10日でちょうど半世紀前の試合。いまでも決して色あせない〝至極〟の名勝負だった(敬称略)。

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