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【ザ・グレート・カブキ連載#27】平成維震軍といえば、やっぱり齋藤彰俊ですよ

東スポWEB 2024年10月7日 16時10分

【ザ・グレート・カブキ 毒霧の真実(27)】1992年7月に天龍源一郎が興した新団体「WAR」の旗揚げに参戦しました。しかし約2か月後に対抗戦をしていた新日本プロレスのスーパー・ストロング・マシンとトレードのような形で新日本プロレスと契約。反選手会同盟に加入することになります。

反選手会同盟は新日本のリングでどんどん勢いを増していて、93年には小原道由と後藤達俊が加わってさらに勢力を拡大します。それを機に「平成維震軍」と名を改めました。改名の理由? やっぱり絶えず、ファンの人たちに新しいものを提供していかないといけませんからね。

平成維震軍を率いていた越中詩郎はやっぱり、うまかったですよ。78年7月に全日本プロレスに入門したときに、受け身の練習からなにから全部やらされていましたから基礎ができている。当時は自分も越中にいろいろと教えてましたしね。彼は仕事ができるから、組んでいても楽しかった。それに木村健悟や小林邦昭もうまかったですよ。

あとは維震軍といえばやっぱり(齋藤)彰俊ですよ。このころ自分もいろいろ教えていました。彼は学生時代に水泳をやっていて五輪の強化選手にもなったように体も強かったですし、まだ若かったから、覚えも良くてね。受け身もすぐにうまくなりました。蹴りもすごい迫力でしたよ。

最初は遠慮しているところがあったから、彰俊に「胸板だったらいくら蹴っ飛ばしてもいいから思い切り行け。泣いたり文句を言ったりするヤツらがいたら俺のところに来い。俺が食らわせてやる」ってアドバイスしたんです。そしたらボコボコに行けるようになって。徐々に空手の蹴りからプロレスの蹴りに変化していきました。

その彰俊も引退ですもんね。引退を発表して少ししてからウチにも来たんですけど、もう、そういう年齢になったのか…ってね。自分も年を取るわけだよ(笑い)。

後藤や小原もちゃんと成長してくれて、どんどん仕事ができるようになっていったんですよ。すると、目に見えてお客さんも入るようになっていったんです。それで平成維震軍で独自の興行を「やってみようよ」って話もしていました。米国ではそうするのが珍しくなかったですから。

新日本に話を持っていったら「カブキさん、それだけはやめてください」ってお願いされましたよ。新日本が“食われてしまう”と思ったんでしょう。今は当たり前にあるけど、このころはユニットの自主興行なんてありませんでしたから。おそらく「成功したら出ていっちゃうんじゃないか」っていう心配もあったんでしょうね。

そんな中、新日本のリングで自分はついに“息子”と遭遇することになります。

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