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【ザ・グレート・カブキ連載#31】引退後は居酒屋で第2の人生をまっとうするつもりでした

東スポWEB 2024年10月15日 16時0分

【ザ・グレート・カブキ 毒霧の真実(31)】1964年に日本プロレスでデビューしてから34年。日米を往復しながら、さまざまな団体のマットで戦い続けてました。そしてIWAジャパンのリングに立っていた自分は、50歳の誕生日を迎える前日の98年9月7日に東京・後楽園ホールで引退興行を開催しました。

最後の試合を終え、ようやく肩の荷が下りました。なによりまずはホッとしましたね。最終戦では戦いながらプロレス人生を思い出していました。ああいう「引退」はもう、なかなかできる人はいないと思いますよ。今は会社が引退興行をするけど、自分の場合はIWAジャパンから興行権を買って一から全て自分で構築しましたから。だから本当の意味で、自分のレスラー人生の“集大成”でした。それで後楽園ホールも満員になりましたから。だから最後に10カウントを聞いた時は心底、安堵しましたよ。

引退後は東京・飯田橋で居酒屋「串焼き・ちゃんこ・かぶき」をオープンさせました。第2の人生に居酒屋を選んだのはレスラー時代に学んだ「ちゃんこ料理」ができるからですね。それと串焼きはもともと嫌いじゃなかったので。「串焼き」をやると決めてからは、いろいろな店を食べ歩きしましたし、実物を見て研究し、知っている店で技術を教えてもらうなど必死に覚えました。

それで何年かすると、お客さんもついてきて、それこそファミリーのようになってきたから、屋号を「BIG DADDY酒場 かぶき うぃず ふぁみりぃ」に改めたんです。自分としてはここでプロレス界と決別し、第2の人生をまっとうする…つもりでした。
ところが店も軌道に乗っていた2002年になって、新日本プロレスからオファーが来たんです。新日本から離脱した武藤敬司への“嫌がらせ”で登場させたニセモノの「グレート・ムタ」(ニセムタ)と女子レスラーのジョーニー・ローラーの「マネジャーになってくれないか」という話でした。自分としては「試合はできないけど、マネジャーなら」と、要請を受けることにしました。

自分としてはニセムタについて「いろんなヤツが出てきていいんじゃねえの?」と思ってましたよ。それに武藤だって米国でマネジャーを務めていたゲーリー・ハートから「お前、カブキの息子ってことでやれ」って言われて「グレート・ムタ」を始めたわけですからね。ムタだってもともとは「グレート・カブキ」のニセモノみたいなものでしょう。

だから、そのムタのニセモノのマネジャーを「本家」の自分が務めたら面白いじゃないですか。マネジャーっていいですよ、アレは。実に面白かった! ところが、話はそれだけでは済まなくなっていくんです。

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