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朝井秀樹はこれからも〝近鉄イズム〟を胸に秘めながら野球に携わっていく【平成球界裏面史】

東スポWEB 2024年10月20日 9時1分

【平成球界裏面史 近鉄編75】平成13年(2001年)、近鉄はまさにミラクルといえる快進撃でパ・リーグを制覇した。朝井秀樹はその年のドラフト1位で地元・大阪のPL学園から近鉄に入団した。そこから3年後の平成16年(04年)には近鉄がオリックスとの球団合併のため消滅。その後は楽天、巨人と移籍し平成25年(13年)から東スポ評論家と活躍の場を移してきた。

評論家になったそのシーズンに出身チームだった楽天と巨人が日本シリーズで対決。現場の雰囲気を知るOBとして臨場感あふれるレポートを世に発信した。それから3年後の平成28年(16年)には打撃投手として巨人に復帰。さらに、その3年後の平成31年(19年)には球団広報としてチームを支えた。

球団広報という仕事は、いわゆるチームとマスコミのパイプ役。選手と取材する立場を両方とも経験している朝井にとっては、うってつけの役割だった。明るいキャラクターと優れたコミュニケーション能力。人間力を存分に発揮し、朝井は日々の業務を精力的にこなしていった。

現役時代からお馴染みの明るいキャラクターが認められ、試合前の円陣での声出しの大役にも抜てきされたこともある。今では球団の公式SNSなどでその様子を垣間見ることができるが、輪の中心で裏方である広報が声を張り上げるのは異例中の異例。もちろんチームOBでもあるかこそなのだが、これも朝井の人柄ならではのエピソードだ。

広報として過ごした2年目となった令和2年(20年)の2月、朝井の姿は巨人の春季キャンプが行われていた宮崎にあった。当時は阿部慎之助二軍監督が率いるファームを担当。元選手である特性を活かし、現役選手たちの練習補助にも積極的に参加していた。近鉄で元同僚だった岩隈久志も加入し、ファームで懸命に復活を目指す姿も刺激になったに違いない。

一軍が練習するサンマリンスタジアムから程近い、ひむかスタジアム。取材陣の数や雰囲気はずいぶん違う。選手の多くは若手で将来を嘱望される存在ばかりだ。そんな中で朝井は、ノックバットを握る阿部監督の横で大声を出し練習を盛り上げ続けた。

若手の夜間練習でも球出しやマシン打撃の補助など、広報業務以外でもチームに献身し続けた。コロナ禍での特殊な状況でのキャンプではあったが、できる範囲でチームを盛り上げようと考えて行動した。そういった姿勢は周囲にも伝わらないはずはない。

阿部慎之助二軍監督が一軍監督に就任した令和6年(24年)には一軍サブマネジャーに就任した。これも二軍監督時代からの指揮官の信頼の証しだろう。

2月中旬、宮崎から沖縄に移動し沖縄セルラースタジアムで再会した際には、いつもの笑顔で迎え入れてくれた。近鉄が消滅した今でも、20年の時を経ても、元近鉄担当記者に対し「当時はお世話になりました」と真摯な態度で接する姿は変わらない。

プロ入り3年目で所属球団が消滅したことは朝井にとって不安でしかなかっただろう。だが、そこから20年で得たものも計り知れず、想像をはるかに超えるものだったはず。球界でさまざまな役割を経験してきた朝井は今後も「近鉄イズム」を胸に秘めながら、野球に携わっていく。

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