【宮崎祐樹連載 オリのゴリBsを知り過ぎた男(3)】高校は長崎日大に進学しました。ここでの出会いが僕の人生に大きな影響を与えてくれました。厳しすぎる的野監督のおかげもあり、今の自分があります。
的野監督は長崎海星の監督時代、1976年ドラフト1位でヤクルトに入団することになる酒井圭一さんを育てた指導者です。オールドファンの皆さんはお分かりかと思います。「サッシー」の愛称で親しまれた甲子園が生んだ大投手です。
高3の夏に長崎、西九州大会の7試合で70奪三振、1失点と異次元の成績を残しています。そのうちの2試合はノーヒットノーランという漫画のような内容です。甲子園でも旋風を巻き起こし、当時、長崎県出身だったヤクルトの松園尚巳オーナーが直々にドラ1指名を指令したそうですね。
巨人OBの江川卓さんが「昭和の怪物」、西武OBの松坂大輔さんが「平成の怪物」と表現されましたよね。酒井さんの時代は英国のネス湖にすむ未確認生物である怪物「ネッシー」にちなんで「サッシー」と呼ばれた。それほどの逸材だったということです。
的野監督の教え子の中には今季の阪神ヘッドコーチ、平田勝男さんもいます。プロ入りした後に「佐賀出身ですが、長崎日大です」と平田さんにあいさつに行った際には歓待していただきました。
「おお、お前は的野さんの教え子やろ。そら大変やったやろなあ。(所属チームがオリックスと阪神でちゅうちょしていると)そんなん関係なかやろ。はよあいさつこんか」と独特の長崎なまりの関西弁で激励され、それ以降は非常に気にかけていただきました。
高校時代、僕は入学した直後の1年からレギュラーで使ってもらいました。当時のポジションは捕手ですから、監督とすればリスクも大きかったと思います。それでも我慢してずっと使ってくれて、一番怒られました。直接は言ってもらっていないですが「こいつは必ずプロに行くから、厳しく接するんだ。今まで一番、厳しく接した生徒だ」と周囲にはお話をされていたそうです。
1年生の時はただただ必死でした。強豪校で1年生からレギュラーということだけで注目していただきました。高校野球の雑誌にも掲載していただき、うっすらとプロを意識するようになりました。
でも、調子に乗る余裕なんてありませんでした。本当にこんなのでいいのか。僕としては必死に野球に取り組んでいただけです。当時、先ほども名前が挙がったサッシーこと酒井さんがヤクルトのスカウトをされていて、プレーを見に来てくれていました。
監督の指導のおかげもあり、2年の夏には「1番・捕手」として甲子園にも出場させていただきました。2安打1打点という成績を残すことはできましたが、1回戦で敗退。3年の夏は県大会ベスト4で敗退という結果でした。