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武田修宏氏、松永成立氏が振り返るJ開幕戦「満員の国立競技場を見て感激」「和司さんとか泣いてた」

東スポWEB 2024年10月26日 13時15分

「永遠のライバル」と呼ばれた2クラブの本当の関係とは――。元日本代表FW武田修宏氏(57=本紙評論家)と同GK松永成立氏(62=横浜Mコーチ)の対談第2回では、1993年のJリーグ開幕カード、ヴェルディ川崎―横浜マリノスがしのぎを削った舞台裏に迫った。当時、日本代表の守護神はスター軍団に〝嫉妬〟していたという。〈レジェンド対談・中編〉

武田氏(以下武田)日産自動車と読売クラブ、シゲさん(松永氏の愛称)とはプロリーグのない時代から切磋琢磨してました。

松永氏(以下松永)日産の監督が加茂(周)さんで読売に「追いつけ」というのが目標だった。例えば、武田の年俸1億ならウチのFWはそれよりも1円でも稼げるように上を目指すという方針でやっていた。読売がなかったら、日産も強くなれなかったよ。

武田 でも、いつも読売は負けてました。(93年創立のJリーグ時代も含めて)6年くらい勝てなかった。

松永 あのときはチームが守備的で、守る側に(元ブラジル代表DFの)オスカーに井原(正巳)、テツ(柱谷哲二)がいたのは大きかったかな。でも、いつかほころびが出るって思いながらやっていたよ。それにタケ(武田氏)はGKにとって、いてほしくないってポジションにいてシュートをはじいても押し込まれていた。たぶんカズ(三浦知良)にはあんまり点を取られていないけど、タケにはすごい取られた。

武田 こぼれ球が多かったですけどね。

松永 本当にそう。いつもシュートをはじいたところにいる。いま、その嗅覚を持つFWはいない。その感覚は今の選手たちに教えるべきだよ。

武田 守備が強いチームだったし、シゲさんはミスがないし、シュートコースもないってイメージ。それでも日本代表のシゲさんからゴールを取れば、自信になるし代表になれると思っていたんで。そこは必死でしたよ。ところで、シゲさんは日本リーグ時代からプロになるつもりでした?

松永 オレは社員として日産に入ったけど、何年かして、プロ契約だったテツに言われて。社員とは(練習)環境が違うのもあって、プロ契約に変えた。その何年か後にJリーグができた。

武田 テツさんは自分の意見をはっきり言うから。それと93年のJリーグ開幕戦でV川崎(読売クラブ)と横浜M(日産自動車)が対戦しました。満員の国立競技場を見て感激し、サッカーやってて良かったなって。

松永 感覚は同じだね。プロリーグができたのはうれしかったけど、俺よりも年上の(木村)和司さんとか水沼(貴史)さんはウオーミングアップのとき泣いていて、それを見てウルッてきた。感慨深かった。それと同時にヴェルディってすごいなって思っていたよ。

武田 ラモス(瑠偉)さん、テツさん、カズさん、キーちゃん(北沢豪)とか、個性の強い選手がいて、注目はされてましたから。

松永 Jリーグができたときのヴェルディはサッカーはうまいし、かっこいいし、オシャレ。絶対勝てないなって思っていた。これが本来のプロとしてのあるべき姿だなって。服装もオシャレで、そこを目指していかないとプロとして発展していかないと思っていた。

武田 プロとしての姿勢はヴェルディを見習っていたということ?

松永 100%そうだよ。あこがれていたよ。ピッチ外もだけど、成績でも劣っていたし、ヴェルディに勝てばマリノスの名前も売れるっていう感じでやっていた。

武田 服装に関してはカズさんやキーちゃんとかぶらないことを意識していただけ。そういえば、以前に女優の小池栄子さんがシゲさんのおっかけをしていたって。テレビで言っていましたね。

松永 知ってたよ。以前にテレビ番組が「話を聞きたい」って来たけど、向こうは大女優だし、こっちは単なるGKコーチなんで、すみませんって丁重に断ったよ。

武田 当時ファンの中に小池さんがいたってわかってました?

松永 全然。記憶にないね。ヴェルディとは違うから。練習場に女の子は来ていたけど、井原(正巳)とか山田(隆裕)が目当て。Jリーグができたとき、オレはおっさんだったから。

☆たけだ・のぶひろ 1967年5月10日生まれ。静岡・浜松市出身。小1からサッカーに取り組み、名門・清水東高(静岡)を卒業した後の86年に読売クラブ入りした。86―87年シーズンには新人ながら日本年間最優秀選手賞を受賞。チーム名がヴェルディ川崎に変わったJリーグでは93、94年の2連覇に貢献した。A代表は87年に初選出。デビュー戦で初ゴールをマークした。2001年に現役を引退した。177センチ、73キロ。

☆まつなが・しげたつ 1962年8月12日生まれ。静岡・浜松市出身。小6からサッカーを始め、地元の浜名高から愛知学院大を経て85年に日産自動車(現横浜M)入り。88―89年シーズンから2季連続で3冠を獲得した。A代表は87年に初選出。ハンス・オフト監督時代の92年のダイナスティカップ、アジアカップ優勝に貢献した。2000年に引退。現在は横浜MのGKコーチとして後進の指導に取り組む。180センチ、74キロ。

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