【平成球界裏面史 近鉄編76】平成6年(1994年)のMLB開幕戦でのことだった。現在では日本の野球ファンなら誰もが知る最強助っ人が偉業を成し遂げた。カブスのタフィー・ローズ外野手がメッツのドワイト・グッデン投手(直球の最速160キロ超、2度の奪三振王)から3本塁打。それも第1打席から3打席連続だ。これは現在でもメジャー記録として残っている。
なるほど、ローズらしいエピソードだと思う野球ファンも多いだろう。ただ、これはNPBに移籍後に作られたイメージであり、メジャーでプレーしていた当時はリードオフマンタイプの選手だった。実際、マイナーリーグのアストロズ1A時代の昭和63年(88年)にはシーズン65盗塁を記録している。
現在とは違い、外国人選手の情報など一般には知れ渡ることはなかった時代だ。米オハイオ州シンシナティのウエスタンヒルズ高から昭和61年(86年)にアストロズの3巡目でプロ入り。幼少期から地元の幼なじみとして、ケン・グリフィー・ジュニアとは親友だった。あのイチローも憧れた元マリナーズのグリフィー・ジュニアだ。
ローズは4年目の90年にはメジャー初昇格。その際は同学年のジェフ・バグウェル(ミスターアストロズ、殿堂入り選手)とともに、有望若手選手としてファンの期待を大いに受けた。だが、メジャーの外野手は怪物そろい。3つしかないポジションを争い屈強の打者がレギュラー争いを展開する。守備のスペシャリストでもなかったローズはレギュラーには定着できなかった。
平成6年(94年)には前出のカブス時代の活躍などで注目を集めたが、メジャートータルでは目立つ成績を残すことはできなかった。MLBでは6年間で通算225試合に出場し、打率2割2分4厘、13本塁打、44打点。平成7年(95年)オフにNPBの近鉄バファローズの一員となるのだが、ファンから大きな期待を受けるような助っ人ではなかった。
ローズを当時から知る近鉄関係者は、こう話していた。
「3Aではシーズン30本塁打するほどのパワーと30盗塁以上できるスピードを持ち合わせた素晴らしい選手でした。でも、メジャーではパワーの面で物足りなさは否めなかった。ローズ自身、確信とまではいかなかっただろうけど、日本の野球のレベルを見て必死でやれば適応できるんではないかと感じたんじゃないでしょうか。彼は必死だったとお思いますよ。野球に対する姿勢は素晴らしかったですからね」
スリムな見た目と、おとなしめの性格で(後にそうではないと判明するが)下馬票ではハズレ助っ人と予想する野球界関係者が多い選手ではあった。だが、ローズは見事に低評価を覆してみせた。
その一因として挙げられるのが近鉄が「いてまえ打線」なチームだったからという説だ。メジャー経験者として特別扱いを受けるわけでもなく、ローズは打って打って打ちまくる近鉄の練習に順応した。日本人選手の若手と同じく両手の皮がベロンと一枚めくれるくらいにバットを振り込んだという。
当時は春季キャンプがサイパン島で行われていたため、スタートから言葉の壁によるストレスがなかったことも良かった。ある程度、日本の野球になじんだ状態でサイパンから日本へ移住。そして、気さくな大阪の街がローズには相性抜群だった。
後にほぼ完璧なイントネーションで「大阪、めっちゃ好きやで」と話すようになってしまうローズ。メジャーではヒューストン、シカゴ、ボストンと渡り歩いた未完のスーパー助っ人がNPBで伝説を作っていくとは、この時点では誰も気付いてはいなかった。