【昭和~平成スター列伝】米国マットで最も成功を収めた日本人プロレスラー、ザ・グレート・カブキの自伝連載「毒霧の真実」が好評のうちに終了した。
1983年2月に凱旋帰国したカブキは、人気絶頂期の同年末にはリック・フレアーのNWAヘビー級世界王座戦に挑戦した(12月12日、蔵前国技館)。米国でも抗争を展開していたが、両雄にはこれが日本で唯一のNWA戦となった。本紙は試合の詳細を報じている。
『両雄は81年8月、テキサス州レボックで顔を合わせ、1時間フルタイムの引き分けに終わっている。最初に手を出したのはカブキだ。グリーンの毒霧を3回吹きつけ裏蹴り、左アッパー2発、ネックブリーカー、オリエンタルクローの波状攻撃。サイドスープレックスで逃げたフレアー。カブキは攻撃の手を緩めずアッパー、クロー、バックドロップだ。ポストに上ったフレアーをカブキは殺人投げ、強烈なキックを2発。並のレスラーならこれでKOだ。さすが最強の男、カウント2でハネ返すとバックドロップから伝家の宝刀、足4の字固めに入った。カブキの上半身はロープ外だ。「ロープブレーク!」とレフェリーがチェックするが、フレアーは突き飛ばし、カブキを場外に叩き出してエプロンでチョップ、チョーク攻撃。分けに入るレフェリーを再度突き飛ばすフレアー。24分24秒、反則のゴングが鳴らされた。「決着は必ずつけてやる」と無念の表情のカブキ。舞台は海を越え、ノースカロライナ地区で両雄はNWA王座を争って激しい戦いを繰り広げるに違いない』(抜粋)
試合のほとんどを支配しながら、日本人選手の多くが泣かされたフレアー得意の「反則で負けても王座を失わない戦い」にはめられた結果となった。結局、カブキがNWA王座を獲得することはなかったが、当時の人気は想像を絶するものだった。
同年2月の凱旋帰国シリーズは御大ジャイアント馬場が海外遠征のため前半欠場となったのだが、予想以上のカブキ人気に「俺がいないからこのシリーズは厳しいだろうと言っていた馬場さんが帰国後、カブキさんのあまりの人気と連日超満員の客入りに嫉妬していたほどだった」と和田京平名誉レフェリーは当時を振り返っている。
メジャーなシングル王座とは無縁だったが、日本全国を熱狂の渦に巻き込んで全日本プロレスの経営を底上げさせ、若手育成に貢献した功績は計り知れない。“東洋の神秘”が巻き起こした一大ブームは永遠にファンの記憶と歴史に刻まれるに違いない。 (敬称略)