【宮崎祐樹連載 オリのゴリBsを知り過ぎた男(7)】「体の強さがなきゃダメだよ。ケガをする選手は計算が立たないから」。亜細亜大学時代は生田監督からそう言われ、徹底的に軍隊にも例えられる厳しい練習に耐えてきました。
当時のそういった話はプロに入ってから本当に実感しました。それこそ、そこが勝負じゃないかなと思うことさえあります。まさに「無事これ名馬」。ケガなく長くプレーされた選手が結果的に成績を残されていますから。
僕は高校から捕手として亜細亜大に入ってきましたが、4年次も控えでした。今思えばようやく4年生ぐらいになってから、配球であるとか監督が言う野球理論が分かるようになってきていたんだと思います。
僕は4年生で2番手捕手。下の2学年には捕手がいませんでした。つまり同級生のレギュラーと僕の4年生捕手2人が抜けると、次のチームには捕手がいなくて大変なことになります。
そのタイミングで亜大は1年生にいい捕手を補強してきました。補強しただけではダメです。補強した1年生捕手を育てないことには将来の見通しが立ちません。
そこで僕は生田監督に呼び出されました。「ちょっと今年はもうお前、悪いけど出番がないんだ。4年生で最後のシーズンなんだけど、ほぼ出場はないと思ってくれ」。なぜなら、こうこうこうでこうなんだ…。分かってくれるよな、という内容でした。
僕は監督からご配慮いただき、就職も決まっていた立場です。文句なんてあるはずもありません。ただ、監督からは「セガサミーに行くんだから練習だけはしっかりしておくように」とは言われました。「分かりました」ということで、最終学年は3番手捕手としてベンチ入りする機会が激増しました。
すると、です。昔のヤクルト・野村監督と古田さんではないですが、監督の近くでボソボソと言われていることを聞く機会も増えたわけですよ。
亜大は野球にも厳しかったですが、実は私生活にはもっと厳しい部活でした。基本的なことですが、あいさつやお世話になった方への翌日の電話であったり…。そういったことも伝統的に徹底されていました。今思えば保険の営業職にも生かされています。
ベンチ内で生田監督に言われた言葉で、今でも大事にしていることは「言われる前に気付け」ということです。例えば投手交代のタイミングも、後続の打者の左右など状況や情報から読めることは結構あります。
監督が動く前に準備のために動いていると、監督からは「それでいいんだよ」と言われるような場面も増えました。こういうプレーをしていると、こういう結果になりがちなんだとか、野球全体の流れも監督の近くで勉強させてもらった最終学年でした。
野球を通しての人間づくり。そこまで言うと大げさかもしれませんが、そういう部分に関しては亜細亜大に進学して良かったなと本当に思っています。若くして親元を離れて寮生活を送るわけです。最も身近な大人は野球の監督。その教えが素晴らしいほど、学生の人生も変わっていくに違いありません。
大学時代に大事なものを学び、僕はセガサミーの野球部として再出発をすることになります。