【宮崎祐樹連載 オリのゴリBsを知り過ぎた男(8)】実家の佐賀県唐津市を離れ、高校は長崎日大に進学。プロのスカウトも視察に訪れる存在となり、大学は東都リーグの名門・亜細亜大に進みました。それなりの希望と将来はプロという夢も持ちながらの大学進学でしたが、4年間はどん底でした。
野球を辞めて実家に帰ろう。教員になろう。そう決めていた直後に亜大野球部の生田監督に呼び出され、社会人野球に進むよう促されました。試合にも全然出ていない僕が社会人に進んでいいのか。大学の同級生からは広島1位の岩本がドラフトされていきました。
自分なんて絶対に無理。同級生たちに比べればプロなんて夢のまた夢。そう思っていましたが、セガサミーに就職して野球部に入部することが決まりました。高校3年間、大学4年間は捕手としてプレーしてきた僕です。捕手にはこだわりがありました、と書きたいところですが選べる立場ではありません。
セガサミーの佐々木誠監督は、僕の足がまあまあ速かったということもあり、外野手で起用することを決めていたそうです。監督に呼び出され「キャッチャーやる? 未練あるん?」と質問されました。僕は「ないです」と即答しました。監督の中では僕を獲得した時点で捕手として使うつもりはなかったそうです。
はい、外野手にコンバートです。これって野球に詳しくない方々はそんなに難題だとは思っていませんよね? 少年野球や草野球では「8番・右翼」の選手を「ライパチ」なんて呼んでバカにしたりしますが、硬式野球のプロの外野手はむちゃくちゃ難しいですからね。しかも、社会人デビューですから。
でも、やると決めたらやるしかないです。キャッチャーミットは同期の捕手に差し上げました。もう、ここからの2年間は死ぬほどバットを振りました。亜細亜大野球部の練習は本当にキツかったですから、セガサミーの厳しい練習にも耐えることができました。
打撃、守備の技術練習は本当に厳しかったですね。それでも日々、僕は「絶対に3年やってダメなら野球を辞めよう」という思いで取り組んでいました。3年後にプロ野球選手になっていなければ引退です。そうなったら、会社で必ず偉くなってやろうと心を決めました。
大学時代はろくに試合にも出られなかった僕ですが、セガサミーでは春から「3番・中堅」で定位置確保です。セレクションでも高評価をしてくださった黒川コーチは「絶対に打つって分かってたから使ったんだよ」といつも言っていただきました。
ここまで佐々木誠監督と簡単に文章にしてきましたが、読者の方々ならどんな方かはご存じですよね? 僕は現時点で30代後半ではありますが、佐々木誠さんのことは入社前から存じ上げていました。
南海、ダイエー、西武、阪神でも活躍された左の大打者です。当時は打率4割も狙える逸材と評価されたほどです。この佐々木さんとの出会いが僕の打撃を変えてくれることになります。