【平成球界裏面史 近鉄編78】 平成11年(1999年)シーズンから明らかにローズは激変した。来日して4年目、助っ人としての役割を強く意識し長打と打点に強いこだわりをみせた。こだわるだけではなく徐々に肉体改造にも取り組んだ。
チームは最下位に沈んだが、ローズは131試合に出場して打率3割1厘と2度目の大台をキープ。さらに、それぞれリーグトップとなる38二塁打、40本塁打、101打点を記録し初の本塁打王、打点王の二冠に輝いた。OPSは1・015という脅威の数値をたたき出した。
この当時の近鉄はファンのイメージ通りに打撃のチームだった。3番・中村紀洋(31本塁打)、4番・ローズ(40本塁打)、5番・クラーク(29本塁打)のクリーンアップは他球団から驚異の的だった。5歳年下の中村とは特に親交を深めており、真剣に打撃論を交わし合った。
20代半ばで伸び盛りだったノリとは切磋琢磨する間柄だった。遠征先などでは試合後に存分に食事も共にした。北海道移転前の日本ハム戦後には度々、六本木の街にも繰り出した。行きつけの焼き鳥店もあるほどで、日本野球にも日本文化にも完全になじんでいた。
当時を知る近鉄関係者は「ローズはもうほぼほぼ日本語の聞き取りは完璧でしたよ。しゃべるのはそこまで流ちょうというわけではなかったですけど、会話に困ることはなかったですね。必要な時には当時の藤田通訳に頼って誤解の無いようにしてましたけどね。プライベートはどちらかというと、何でも自分で経験したいから単独行動することを望んでましたね」と話す。
〝地元〟の大阪では都会と下町が交錯する大阪市・阿倍野に住み単独で地域の飲食店に飛び込むこともあった。大阪市営地下鉄も完全に乗りこなし休日には積極的に外出し日本文化を吸収していった。日本人、外国人に関わらず大阪で多くの友達を作っていった。
チーム内での役割は助っ人ではあった。それを意識し求められる役割を全うした。ただ、ローズ本人に自分が外国人助っ人だという意識はなかった。「近鉄のみんなは仲間、家族」と親しみを持っていた。
佐々木監督から梨田監督に代わった平成12年(2000年)もチームは2年連続で最下位に沈んだ。ローズ自身も135試合にフル出場しながら成績を落とした。打率2割5分7厘、25本塁打、89打点。悪い数字ではないが前年に比べれば物足りない印象は拭えなかった。
そして、近鉄にとって最後の優勝となるシーズンがやってくる。平成13年(01年)、近鉄は大混戦だったパ・リーグをシーズン終盤の勢いで一気に押し切った。その原動力となったのはもちろん、ローズと中村ノリだった。