【マキ上田 ビューティ・ペアかけめぐる3年間の軌跡(8)】1976年2月、全日本女子プロレスでジャッキー(佐藤)と初めてタッグを組んだ試合で、WWWA世界タッグ王座を手にしました。「ビューティ・ペア」の誕生ですね。入門してきた当時のジャッキーは人見知りであまりなじんでいなかったし、陰がありそうな感じで、堅物な人間だと思ってました。
でもジャッキーは「誰よりも強くなりたい」という気持ちを持っていたので、人一倍練習していたし、一緒にトレーニングもしてました。初めてベルトを巻いた時、2人ともまだデビューしてから1年もたっていません。だから王者とは思えないほど、全身あざだらけでしたよ(笑い)。
初めての王座戦はシルビア・ハックニーとソニア・オリアーナという外国人選手が相手でした。当時は日本人VS外国人みたいな試合が多かったですね。特にメキシコ出身の選手は体が硬いのに力が異様に強くて、叩いても効かないから頑丈な岩みたいな人ばかりでした。メキシコといったら男子はミル・マスカラスなイメージだったけど、女子は飛んだり跳ねたりもできない人が多くて驚きましたね。
ベルトを持って、しばらくすると「かけめぐる青春」というタイトルのレコードを出すことになりました。当時はお客さんのほとんどが男性で年配のおじさんがちょこちょこといたくらい。でもフジテレビによる中継は始まっていて、ジャッキーとベルトを巻いて巡業に行ったら、関東圏に近づくにつれて若い女の子が増えてきたの。
今までの試合会場では見たことがなかった女子中高生のお客さんがどんどん増えてきて、東京で試合する時には超満員。ハチマキを巻いた女の子たちの黄色い声援が響いて、自分たちも驚いたけど、会社側もそこまで売れるなんて思ってなかったからものすごくびっくりしてましたね。今まで少なかった紙テープも大量に降ってくるようになって「売れたんだ」と実感しました。
そこからテレビの仕事も増えてラジオにも出たり、寝る時間もないほど忙しくなりました。レコードは約80万枚も売れて、当時フジテレビの番組にはほとんど出たし、音楽番組にもたくさん呼ばれました。あまりにも忙しくてリハーサルに出られないから、新人の子にマキ上田役をやってもらっていた。出番の前に段取りを聞いて歌ったらまた移動。寝るのは移動の車だけで練習する時間もなかった。
それでも年間300試合出てましたね。地方巡業の時は東京で何本か撮りだめをし、移動して試合したら、地方のテレビ局にも出る日々で休みなんかない。なので「3禁」(酒、たばこ、男)も守るしかない状況でしたね。今考えたらありえない生活でした。