【プロレス蔵出し写真館】ジャイアント馬場の偉業をしのぶ「没25年追善」大会が、命日となる来年1月31日に後楽園ホールで開催される。
日本プロレス時代、馬場の象徴だったインターナショナル選手権に4回挑戦したのはキラー・カール・コックスだ。これは6度挑戦した〝鉄の爪〟フリッツ・フォン・エリック、5回の〝荒法師〟ジン・キニスキーに次ぎ、〝人間発電所〟ブルーノ・サンマルチノと並ぶ記録だ。
今から56年前の1968年(昭和43年)10月17日、五島列島の福江港。フェリー乗り場で別れの紙テープが舞う中、乗客に交じり桟橋を渡るジャイアント馬場。それを笑顔で見つめるコックスの姿があった。
前日の福江大会でコックスはレッド・バスチェン&ザ・メディコ1号と組んで馬場&大木金太郎&吉村道明組と対戦。1週間前に観客が投げたビールの缶が頭に当り、約4センチの裂傷を負っていたコックスは、馬場から傷口を狙った脳天チョップを浴び、1本目からエキサイトして派手な場外乱闘を展開していた。
11月2日には蔵前国技館で馬場のインターナショナル選手権に挑戦。2本目に馬場から48発もの耳そぎチョップを食らい2―1で敗退した。コックスと馬場の試合では耳そぎチョップの攻防が印象的だった。
さて、コックスは垂直落下式ブレーンバスターの〝元祖〟として知られる。初来日した66年の5月20日、町田で行われた吉村戦で初公開。食らった吉村は失神して担架代わりのゴザに乗せられ控室に運ばれた。
リングドクターの畑岩雄医師(町田市中央病院副院長=当時)は「強度な脳震とうを起こした。普通の人だったらあの一発で死んでしまうところだが、吉村さんは首と頭をよく鍛えており脳震とうですんだ」と語っていた。
コックスは殴る蹴るのラフファイトを信条とするレスラーだった。
しかし、ファイトスタイルとは裏腹に人間性は違っていたと証言していたのは坂口征二。武者修行したテキサス時代を振り返り「(コックスは)親切な人だった。長距離移動で車に乗せてくれて一緒にサーキットした」と明かした。
ところで、コックスは部類のイタズラ好きでもあった。ホームで列車を待つ間カールソンの背中に紙をペタリ。小学生がやるようなことをだいの大人がやっていた。
コックスには義眼疑惑があった。「右目が落ちた!」と言って、落ちた目を女性ファンやちびっ子ファンに見せて驚かせた。義眼だから取り外しができるのだと思われていた。
「猪木戦記」(全4巻、ベースボール・マガジン社)を上梓したプロレスライターの流智美さんは、「義眼というのはウソ。ポケットの中に入れていた目の玉に見せかけたガラス玉を取り出していた。彼の息子ショーン・コックスが『親父が得意のイタズラだったよ』って言ってた」と証言する。
流さんは昨年「カリフラワー・アレイ・クラブ」でヒストリアン・アワード(James C. Melby Historian Award)を受賞。同じ年コックスはポトモースアワード(Posthumous Award)を受賞した。息子のショーン・コックスが授賞式に出席した。
流さんは「毎年一人だけ、かつての大レスラーが表彰される。息子のショーンと食事の席が隣だったからいろいろ話を聞いた。家族とメリーランド州ボルティモアに住んでいて、『親父からずいぶん(日本の)お土産をもらった』って教えてくれた」
コックスはある日、巡業に同行した東スポに〝義眼〟のイタズラのやり方をレクチャーしていた(写真)。左目は見開いてカメラを見つめたまま、右目だけを徐々に細めて伏し目がちに左側に移動させる。タイミングを計り、右目を押さえてポケットからガラス玉を取り出して見せてくれた。隣に座っていたニコリ・ボルコフは大笑いだった。
筆者は最後の来日となった81年(昭和56年)2月の東北巡業で、コックスを初めて取材した。「場外乱闘は一歩踏み込んで撮る」。そう指導してくれた先輩カメラマンの言葉に従ってカメラを向けると、〝怖い〟表情を作ってくれた。
流さんは「コックスには引退後に話を聞いたけど『ブレーンバスターで相手をケガさせたことは1回もない』って本当に自慢してたよ」。そう懐かしむ。
〝殺人鬼〟の異名で呼ばれたコックスは関係者、マスコミに好かれた好人物だった(敬称略)。
※「Cauliflower Alley Club」は北米の現役および引退したプロレスラーとボクサーが参加する非営利の友愛団体。レスラーの耳が激しいトレーニングの過程で潰れ、カリフラワーのようになってしまうことを由来とし、65年に設立された。68年に始まった年に1度の授賞式は今年で57回目を迎える。