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【宮崎祐樹連載#16】今でも忘れない 二軍で打ちまくっていたのに「明日から三軍に行け」

東スポWEB 2024年11月19日 11時24分

【宮崎祐樹連載#16】出場試合ゼロのプロ1年目を経て、僕のプロ2年目がスタートしました。春季キャンプから一軍がオープン戦を戦う頃、イースタン、ウエスタンではそれぞれで二軍のオープン戦に当たる教育リーグに入っていきます。

当時の新井宏昌二軍監督は二軍でも結果主義という方針がミーティングで伝えられました。若手やベテランに関係なく二軍の公式戦に該当するウエスタン・リーグでは、教育リーグで結果を残した選手を優先的に出場させるとのことでした。

そんな中、僕は打ちまくりました。教育リーグでの打率が3割6分、5分ほどの数字だったと思います。僕と同じ右の外野手だった丹羽将弥(2007年高校ドラフト1位)は、それを上回る4割超の打率を残していました。

そして二軍の公式戦が始まる前日のことでした。明日から開幕戦という日に、新井二軍監督から僕と丹羽は「明日から三軍に行け」と通告されました。あれは今でも忘れることができません。

三軍担当だった弓岡敬二郎コーチも「ええっ、お前らが落とされてきたんか」とさすがに驚いてましたね。当時の僕たちも「何でやねん!」と愚痴ってしまいました。

でも、弓岡さんからは「そんなん言うててもしゃあないから、歯を食いしばって頑張れ」と、諭されました。とことん練習にも付き合ってくれました。打撃練習では打撃投手役を一人で担ってくれて何球も何球も投げてくれましたね。

なぜか、差別化を図るという方針で、神戸サブで行われたオリックス二軍のホームで行われるウエスタン戦でも、われわれは練習のグラウンドには立たせてもらえませんでした。

その間はグラウンドから徒歩で移動可能な合宿所・青濤館に併設された雨天練習場で僕と丹羽だけで練習です。試合後もグラウンドではなく雨天練習場で居残り練習です。

弓岡コーチが「試合前のシートノックにだけは入れてあげてくれ」と何度も提案してくれました。何度も却下され続けましたが…。それでも、ようやく4月下旬くらいでしたかね、シートノックにだけは入れてもらえるようになりました。

そして、確かソフトバンク戦だったと思うんです。そのウエスタン戦で出場予定だったベテラン選手がけがをして、僕が代わりで1番打者として使ってもらえることになりました。そこからはずっと打ち続けました。

そんなるある日です。5月に親子ゲーム(地元で二軍、一軍が同日にデーゲーム、ナイターを開催)があった時、岡田監督が二軍戦を視察に来られたんです。そこで「あいつ調子ええやんか。何で(一軍に)上げへんの」となったわけです。

5月4日に僕は一軍登録されました。でも、全く通用しませんでした。プロの一軍の投手のボールのレベルをまざまざと思い知らされました。10日の登録抹消までのわずか1週間の期間に4試合、9打席に立ち無安打、5三振です。

日本ハム・吉川光夫(12年は14勝、防御率1・71)、ソフトバンク・大隣さん(同12勝、防御率2・03)ら左のいい投手と対戦させてもらって、全く歯が立たなかったです。自分の力不足を痛感しました。でも、この経験が後に生きてくるんです。

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