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ローズが〝世界の王〟に並んだ日 記念すべき55号は松坂大輔からの技あり弾【平成球界裏面史】

東スポWEB 2024年11月24日 9時10分

【平成球界裏面史 近鉄編80】平成13年(2001年)の近鉄は12年ぶりのリーグ優勝を達成した。その中でのローズの働きは傑出していた。打撃の調子が安定しながら、本塁打を量産。9月5日の西武戦(西武ドーム)の時点で早くも50号本塁打を記録した。

パ・リーグで50本塁打を記録した選手は昭和61年(1985年)のロッテ・落合博満以来、15年ぶりのことだった。外国人選手に限ると昭和60(84年)年の阪神・ランディ・バース以来16年ぶりという記録だった。

つまり、パ・リーグの外国人選手としては初の大台50号到達。そのまま勢いに乗り9月8日ののダイエー戦(大阪ドーン)では51、52号と量産し野村克也、落合博満の持つパ・リーグシーズン最多本塁打記録に並んだ。

さらに、9月9日のダイエー戦(大阪ドーム)でパ・リーグ史上最多本塁打記録更新となる53号本塁打を記録。同12日のロッテ戦(大阪ドーム)で54号と勢いは止まらなかった。

この時点で歴代外国人最多のバースに並び、当時のプロ野球記録だった王貞治の55本塁打にリーチとなった。そこから6試合は足踏みしたが、同24日の西武戦(大阪ドーム)でついに王に並んだ。

2―4と西武にリードを許していた5回表の打席だった。マウンドには当時、21歳の松坂大輔が立っていた。やや浮いたチェンジアップが肩口から入ってくると、ローズは右翼方向にきれいにすくい上げた。

1点差に詰め寄る55号ソロはNPBシーズン最多タイ記録。当時のローズは「自分の記録と戦っていたわけではなかった。チームが優勝争いを演じる中で僕自身の記録も並行して伸びていった。2つの戦いをしていたような状態だったけど、素晴らしい経験をしていると実感している」と語っている。

この24日の西武戦は壮絶な幕切れが用意されていた。ローズの55号も劇的なら結末もそれ以上だった。近鉄にマジック3が点灯していたとはいえ、負ければ西武にも逆転優勝の可能性が出る白熱した大混戦だった。

9回を迎えた時点で西武が6―4とリード。9回のマウンドにも松坂大輔が立っていた。この回の先頭は平成13年(01年)から近鉄にトレード移籍してきた北川博敏が的山哲也の代打で起用された。阪神時代は打てる捕手として期待されながら開花できなかった。だが、移籍したこのシーズンにプロ初本塁打を放つなど、打者として欠かせない戦力となっていた。

その北川が松坂から左越えソロを放ち1点差。打順は1番に戻り、次打者の大村直之は遊ゴロとなったが、2番・水口が四球をもぎ取り中軸につないだ。ここで55号を達成したローズが打席へ。球場の猛牛党はNPB新記録となるシーズン56号本塁打でサヨナラ勝ちという夢を脳裏で描いた。

だが、この打席でのローズはフルカウントまで持ち込むも三振で二死一塁。やや球場内のテンションは下がり気味ではあったが、続く4番・中村紀洋が大仕事をすることになる。

当時から現在にかけてローズ、礒部が口をそろえて言う言葉がある。「あのシーズンはノリはずっとこう言っていた。『今年は何かが違うねん。今年は何かが絶対に起こるから』と。連敗してもノリがそう言ってずっとナインを鼓舞していた」。その言葉を具現化する〝奇跡〟が現実に起こることになる。

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