【マキ上田 ビューティ・ペアかけめぐる3年間の軌跡(17)】1979年2月に現役を引退し、女優業をやって4年くらいたった時かな…。自分が息抜きをできる場所をつくりたくて、88年ごろに地元の鳥取でスナック「マキの店」を開業したんです。
東京に友達がいて、まだ少しだけ仕事もあったから、鳥取と東京を行き来して。女優時代に稼いだお金で地元の女の子2人くらい雇って始めました。小さなお店だったから、自分の好きなようにやれるのが楽しかったんです。最初は私が鳥取に戻ってきていることを知ってる人もいなかったから、全く気がつかれなかったんですよ。
その間、全日本女子プロレスの何周年セレモニーとかがあると出向いていたけどプロレスは見てなかった。だからジャッキー(佐藤)が神取(忍)にボコボコにされた試合(※)も知りませんでした。あとから聞いてジャッキーのことだからありえる話だなと。ジャッキーは昔から好き嫌いがはっきりしていて後輩に冷たくするときもあったから。後輩たちの泣き言を全部神取が聞いてたんじゃないかな?
神取も正義感の強いタイプだろうからみんなの思いを背負って、自分が選手の代表として試合に臨んで、そういう試合になったんじゃないかな。それでジャッキー自身も全員に嫌われてしまったっていうのを感じて“心が折れた”状態になったのかもしれません。
私自身はジャパン女子に誘われて以降、20年くらいジャッキーと連絡を取っていませんでした。再会したのは98年に放送された全女の特集番組だった気がします。そこで「久しぶり。今どうしてる?」みたいな感じで。向こうは「体操教室をやってる」って聞いて驚いたよ。その後、全女の殿堂入りセレモニーに呼ばれて2人で久しぶりにリングに上がった。
その年に私のお店が10周年を迎えたので、ジャッキーに「鳥取に来てくれない?」って言ったら「いいよ」って。お店に来てもらった次の日は温泉旅行に行って、思い出話をして昔を懐かしんだな。プライベートで会ったのはその1回だけ。あの時のジャッキーはものすごく線が細くなってて本人は胃がんであることは言わなかったから、体操の影響で痩せてんのかなって思ってました。
1年後にジャッキーが亡くなったと聞いて、ナンシー(久美)に連絡して病名を知りました。闘病中はジャパン女子で仲良くしていた空手家の友達が面倒を見ていたみたい。お見舞いに行ったナンシーによると「マキちゃんには弱ってるところを見せたくない」って。まだ41歳で、突然別れがくるなんて思ってなかったから言葉では表せない気持ちになったよ。1年前に言ってくれたらって今でも思いますね。
※87年7月18日、神取がジャッキーさんの顔面を殴るケンカマッチになった。最後は神取が腕固めで絞り上げギブアップ勝ちした。