【昭和~平成スター列伝】先週は“世界の16文”ジャイアント馬場とドリー・ファンク・ジュニアの最後のPWFヘビー級王座戦(1974年1月30日、日大講堂)について書いたが、両雄最後のシングル対決は、翌年に開催されたオープン選手権公式戦(75年12月12日、鈴鹿)だった。同リーグ戦は空前のメンバーを集めたリーグ戦で団体の総力を尽くした一大イベントとなった。
参加メンバーは馬場、ドリー、アブドーラ・ザ・ブッチャー、ハーリー・レイス、ダスティ・ローデス、ジャンボ鶴田、ザ・デストロイヤー、ディック・マードック、ドン・レオ・ジョナサン、パット・オコーナー、ラッシャー木村、大木金太郎と各国の代表と国際プロも参加。実に20選手が集結して総当たりは困難なため、ファンの人気投票をもとにしてカードを決める変則的なルールが採用された。
日本プロレスでの初対決(69年12月3日、東京体育館)で馬場が挑んで60分引き分けに終わったNWA世界ヘビー級戦の名勝負以来、国内では馬場の1勝4分け。このオープン選手権公式戦ではドリーが馬場をフォールし、意外ながら馬場からシングル初勝利を挙げている。
『優勝候補同士の一戦は手の内を知り尽くしているだけに息が抜けない。ジュニアはヘッドシザースからアームバー、クルスフィックホールド。馬場はキャンバスに二転三転するが、水平チョップ連打からカウンターの水平打ち。ジュニアは下から突き上げるエルボースマッシュ。馬場は必死の水平打ちからネックブリーカードロップ! さらに16文キックのカウンター。しかしカウント2。馬場は脳天チョップ、水平打ちとラッシュ。ジュニアがはね返すと馬場はヤシの実割りの連発…1発2発と宙に舞うジュニア。しかしもう1発と入ったところ、ジュニアは豪快なバックドロップ。馬場は脳天からキャンバスにめり込むが、ジュニアのプレスをハネ返す馬場がフラフラ立つと、ジュニアはエルボードロップから回転エビ固めで押さえ込む。カウント3。馬場が敗れた。「足はロープだ」と抗議する馬場にジョー樋口レフェリーは首を振る。馬場はガックリとしてリングを下りた』(抜粋)
両者のシングルは五分の戦績でこれが最後となり、オープン選手権は馬場が優勝した。それでもドリーはトップの座を維持。弟テリーと臨んだ77年12月15日蔵前国技館の世界オープンタッグ選手権最終戦はブッチャー、ザ・シーク組の凶器攻撃で壮絶な試合となり、日本中に衝撃を与えた。この試合でテリー人気が大爆発。ドリーは「ザ・ファンクス」の兄貴分として全日マットの中心に立ち続けた。 (敬称略)