【波瀾万丈 吉田秀彦物語(1)】バルセロナ五輪柔道78キロ級金メダルで、総合格闘技(MMA)でも活躍した吉田秀彦氏(55=パーク24総監督)の連載「波瀾万丈 吉田秀彦物語」がスタート。1990年代は柔道、2000年代はMMA、現在は指導者として光を放つ“柔道王”が激動の半生を振り返る。
自分が柔道を始めたのは小学4年です。暴れん坊だったので、父親に柔道教室に連れていかれました。
柔道は正直、やりたくなかったんですよ。「臭い、暑い、もてない」というイメージがありましたし。実際、道場は異様な臭いがしたし、たまりませんでした。柔道を続けた理由って道場に通っていた子と、休みの日に遊べたからです。夏になれば海とか川に行ったり、冬になればスキーに行ったりですね。みんなと遊ぶために柔道をやっていたんですよ。
でも実は、地元の大石道場で柔道を始めた時、予習をしていました。小学校で柔道をやっていた子に「柔道って最初何やんの?」って聞いて、学校の教室で前回り受け身を練習しました。けっこう集中してやるタイプだから、受け身ができるようになってから、道場に行きました。習ってから行ったんで、いきなり前回り受け身ができたから、道場の先生もびっくりしていましたよ。
そうした中で、自分の人生で大きな分岐点がやってきました。柔道私塾・講道学舎に入塾することになったんです。いきさつは中学2年の終わり。講道学舎が同じ道場の神谷くんが欲しいということになって。学舎には1つ上の先輩も入っていて、愛知から行くという流れもできていた。神谷くんはすごく強くて、自分は付き人でついていったんです。だから余計なおまけでした。「講道学舎」なんて聞いたこともなく「何でこんなとこ、行かないといけないんだ」と内心、思っていました。
試験は実技と筆記、それと親の面接がありました。でも自分が入るつもりで受けに行ったわけじゃないし、試験には吉村和郎先生(※)がいて、やたら怖い顔をしている。「やっべえ人いるな。こんなところ、絶対入りたくないよ」と(笑い)。その時、吉村先生と練習をやったら、絞められて…。悔しくて泣いてかかっていきました。そんな嫌な思い出しかないんです。
結局、神谷くんは講道学舎に行かないことになり、親父が「お前、行け」って言ってきて。父親が怖かったら「行かない」なんて言えないので、行くことになりました。「わけのわかんないことになったな」と思って講道学舎に入ったら、玄関に虎の木製の置物が置いてあって…。その日に学舎のママさんがひき肉カレーを食べさせてくれたんです。当時はひき肉カレーなんて食べたことなかったから「ああ、俺はここに入るんだ」って自覚しました(笑い)。でも、そこで待っていたのは地獄だったんです。
※数多くの五輪金メダリスト、世界王者を育てた「柔道名伯楽」。元全日本柔道連盟強化委員長。