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【宮崎祐樹連載#25】同じミスをしても即二軍とそうでない選手がいる状況に不満を感じていた

東スポWEB 2024年12月4日 11時9分

【宮崎祐樹連載 オリのゴリBsを知り過ぎた男(25)】2013年にプロ最多の53試合に出場するも、4年目の14年はわずか4試合。波に乗れないプロ生活を送っていました。就任当初は起用してくれた森脇監督にも、嫌われてしまったのか一軍に呼ばれる機会は減少していました。

それでも福良淳一ヘッドコーチには目をかけてもらっていて、二軍から引き上げてもらえるチャンスも与えていただきました。ただ、昇格目前のウエスタン戦で骨折してしまったり…運にも見放されていました。

そんな中、14年はチームが好調でソフトバンクと壮絶な首位争いを繰り広げていました。最終的にオリックスはリーグ最多となる80勝(62敗)を挙げながら、ゲーム差なしの勝率2厘差で優勝を逃すことになります。ソフトバンクは78勝60敗6分けだったんですよね。ファンの方々は記憶に残っていると思うのですが、10月2日のソフトバンク戦(ヤフオクドーム)で勝てば1996年以来のリーグ優勝だったんですが、1―2の惜敗でシーズンが終了しました。

15年は代行から含めれば森脇監督4年目のシーズンでした。前年の快進撃があっただけにファンの方々も大きな期待を寄せていたと思います。ただ、チームは序盤から低迷し6月2日に森脇監督は休養となります。そこから福良ヘッドが監督代行となり、僕にもチャンスが巡ってきました。ファームでは変わらず好成績を残していただけに、監督が代わったならチャンスだし、やってやろうという気持ちでした。

6、7月は出場した27試合中、25試合で出塁し役割を果たせたかと思っています。後半戦でもスタメン出場させてもらう試合もあり、このシーズンは自己最多の33安打14打点という数字を残すことができました。そうなると福良監督代行が正式に監督に就任した16年は飛躍のシーズンかと思いきや、23試合の出場にとどまってしまいます。

これは僕が監督やチームの求める野球にフィットしなかったから悪かったのかもしれません。一度の送りバントのミスなどで簡単に二軍落ちということなども重なり不満を感じていた自分もいました。

これは言っても仕方がないのかもしれませんが、同じミスをしても即二軍の選手とそうでない選手がいるような状況も重なって「何でなん」という気持ちが募りに募ってました。チーム内での役割など複雑な事情も絡んでいたのかもしれませんが…。

その当時の“被害者”は僕と縞田が多くて二軍でも「何でなの?」という不満が他の選手も含めて渦巻いていました。そうなるとチーム自体の雰囲気も悪くなります。坂口さんが下交渉で大幅減俸を通知され、このシーズン限りで自由契約となりヤクルトに移籍したんですね。これまでのチームの功労者を放出するのかという空気もありましたよ。

このシーズンは現在、MLBで活躍している吉田正尚がドラ1で加入した年でもありました。今思えばチームの移行期でもあったんですよね。それでもプレーしている選手はそれぞれに一生懸命です。なんだか、自分自身もスッキリしない気持ちでシーズンを過ごしていました。

16年はオープン戦、交流戦、ウエスタン・リーグ、パ・リーグペナントレース全てでオリックスが最下位でした。この「完全最下位」はNPBの歴史で現在でも唯一の記録ですよね。

このころは近い未来で現実となるオリックスのリーグ3連覇なんて想像もつきませんでした。

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