【波瀾万丈 吉田秀彦物語(3)】中学3年で講道学舎に入った時、古賀稔彦先輩(※)は高校2年でした。当時から柔道界の大スター。でも、入ったころからかわいがってもらいました。朝の練習で打ち込み相手が古賀先輩でした。
こう言ってしまうとダメなんですが…。(横地)理事長が変な打ち込みを教えるんです。理事長は相撲出身だったんで「ワキをすくって…」とか相撲のような動きをやらせるんです。でも、柔道の試合じゃ使えない。古賀先輩は面倒くさがって、やりませんでした。だから、打ち込み相手の自分がやっていました(笑い)。
そうして仲良くなり、部屋に呼んでくれるようになりました。それと、自分は耳かきがうまかったら、よく呼ばれた。古賀先輩は集中した練習をするんで、すぐに「賭ける」んです。乱取りで「俺が3本投げる間に、お前が1本取ったら、お前の勝ちね」とか。それで負けたら、ジュース1本おごる。もちろん、自分は弱かったし、古賀先輩から1本取ることはありえませんでしたけど。今思えば間近で古賀先輩を全部まねして、いろんなことを実際に体で覚えることができました。
それに古賀先輩の部屋にいれば、他の先輩に仕事で使われないから、ずっと古賀先輩の部屋にいた(笑い)。古賀先輩の部屋にはテレビがあったんです。当時の学舎ではテレビはダメ。食堂に置いてあるテレビだけ見られました。「欲」をなるべく抑えるのが講道学舎でしたから。だから、古賀先輩はナイショで持っていたんです。入り口のふすまに布をかけて暗くして、寝てるように見せかけ、2人でこっそり見ていましたね。
高校に入って3年生が引退した後、関東大会の団体戦のメンバーに選ばれました。当時の団体戦は抜き勝負でしたが、準決勝で5人抜きしたんです。それで全国大会に行き、名が知られるようになりました。結果が出たら自信がつきましたね。でも実は、その1回戦の後では、ボコスカ殴られた。「何ていう試合してるんだ!」と。スイッチが入ったみたいで、ムチャクチャ殴られましたけどね…。
でも、吉村和郎先生の怒り方って、愛情があったんですよ。自分たち子供と同じレベルまで落ちてきてくれて、一緒に遊んでくれるんです。当時は日曜日の午後だけ休みだったんですが、みんなと一緒にサッカーをやったり、ファミコンをやったりで。吉村先生は子供と一緒になって、自分も楽しんでいた。だから、みんなに好かれたんでしょうね。
※「平成の三四郎」の異名を取った天才柔道家。バルセロナ五輪71キロ級金メダリスト。故人(享年53)。