【波瀾万丈 吉田秀彦物語(9)】1996年のアトランタ五輪ではメダルを取れませんでしたが、97年に大きな転機がやってきました。母校・明治大学柔道部の監督を務めることになったのです。
あれは次期監督に就任する予定だった小川直也先輩が、プロレスに行ってしまったから。次にやる人がいなくて、自分に声がかかったんです。まあ、明治の道場には練習で毎日行ってましたから。でも話があった時、最初にきちんとこうお伝えしたんです。「やるのはいいですけど、何もやらないですよ」って。当時、監督の仕事は練習を見るだけだと思っていましたから。何より、現役選手でしたからね。
それが…実際に監督をやってみると、練習を見るだけでは済まないんです。部員の勧誘があるし、就職活動も手伝わないといけない。部員を勧誘するために東北各県を回ったり、就職活動で大阪を日帰りしたり。本当に動き回っていたし、柔道以外の活動が結構大変でした。
実際の指導?「強くなろう」と思うやつは、自分でやりますよ。そこであと一歩、追い込む練習をさせるのは監督の仕事だと思っていました。言葉で教えるより、部員と一緒に練習をするほうが楽でしたから。自分としては監督専任より、プレーイングマネジャーで良かった。監督をやりながら選手もやって、態度で見せられましたから。割合で言えば監督業8、選手2。99年の世界選手権バーミンガム大会では監督をやりながら、90キロ級で優勝。部員に見せつけてやりました(笑い)。
当時の明大柔道部監督は無給だったので、諸経費や部員との交流には自分の貯金を崩して使いました。OB会が柔道部を運営していたので、当時の監督はボランティアみたいなもの。だから、自分はお金をもらっていなかったんですよ。今の柔道部は違いますが、その結果、自分の貯金は全部なくなりました!(笑い)。だから、毎週柔道教室を開催し、お金をつくっていきました。
監督業は大変だったけど楽しかったですよ。いろんな人に出会えた。だから今があると思っています。地方に行けば、明大柔道部の先輩が必ずいる。今まで関わりのなかった先輩にも会えて楽しかったな。新潟に部員の勧誘に行った際は現地の先輩に連絡しました。その先輩は日本酒「越乃寒梅」の社長(※)です。勧誘の後にごちそうになり、酒造所も見学させてくれました。そういう偉大な先輩方のおかげで、本当にいい経験ができましたね。
親御さんたちと問題が起きたことはなかったですし、部員が入る前にきちんと筋を通していました。「お預かりしたからには責任を持ちます」と約束しましたね。
※石本酒造代表取締役の石本龍則氏。