19日に98歳で死去した読売新聞グループ本社代表取締役主筆の渡辺恒雄さんは、年末に元号が大正から昭和に変わった1926年に東京で生まれた。本人回顧録などによると、詩人を志した少年は哲学者に志望が変わり、東京大進学、軍隊召集、復学から日本共産党入党など波乱に富んだ青年期を送っていた。
1990年代末の雑誌連載などを基にした「渡辺恒雄回顧録」(監修・聞き手=御厨貴 聞き手=伊藤隆、飯尾潤)によると、渡辺さんは東京・開成中時代に文学に傾倒し、詩人を目指す。ところが自作が「愚作」だとして、論理的に考える哲学なら「才能がなくてもできるはずだ」と考えが変わった。
東京高校を経て45年に東京帝国大哲学科に入学すると、終戦間際の6月に召集令状がきた。「三宿砲兵連隊の陸軍二等兵だったかな」と記憶をたどった渡辺さん。相模湾で米軍上陸に備える任務だったという。
入営時にはひそかにカントの哲学書を持ち込んだ。2020年にNHK・BSで放送されたインタビューでは、死を覚悟し、入隊前に自身の葬儀で流す曲を決めていたことを明かしている。チャイコフスキーの交響曲第6番「悲愴」など。渡辺さんはクラシック音楽が好きだった。
8月15日に除隊し、疎開を経て復学した。18年の読売新聞社入社式を報じた「文化通信」によると、渡辺さんはあいさつで「軍隊入って、野蛮な、くだらん、ばかな組織、日本を全土焦土と化してばかな戦争をやった連中に対する非常な反感、反体制的な考えをもっていたので、大学時代に共産党に入った」と若き日を振り返っている。年末に入党申し込み。やがて「東大細胞」のキャップになった。
この間、党が厳守を命じたという「軍隊的鉄の結束」に反発し、論争を起こした。渡辺さんの活動は党中央から「分派活動」とみなされ、200人いた東大細胞は47年末、解散処分に。「日本共産党始まって以来の最大の処分だった。元凶・渡辺恒雄は本富士警察のスパイだったと日本共産党史に書いてある」(18年入社式あいさつ)。渡辺さんは除名された。
大学院を経て50年に読売新聞入社。「読売ウイークリー」編集部から52年に政治部へ。その後の「大記者」ぶりは広く知られる。
12年のドラマ「運命の人」のモデルとなった元毎日新聞記者の西山太吉さん(故人)とは親交があり、西山さんが逮捕された沖縄密約報道事件では弁護のため法廷に立っている。渡辺さんには闘士の一面もあった。