【波瀾万丈 吉田秀彦物語(12)】2001年11月の講道館杯100キロ級決勝で鈴木桂治に負けました。これが引き金になり現役引退を決意しました。桂治があそこまで強くなっているとは思わなかったし、シドニー五輪金メダルの井上康生もいる。2人とも成長度合いがすさまじく「こいつらに勝ったとしても世界に出て戦う気持ちがないな」と痛感。気持ちがないと勝つことはできませんからね。
所属の新日鉄に伝えたら「全日本選手権までやってほしい」と言われました。新日鉄にはお世話になったので、義理を通し02年4月の全日本選手権が引退試合となったのです。しかし、自分は初戦で敗れました。
正直…「俺、こんなふうに終わるはずじゃなかったのに」と思いました(笑い)。試合前から肩が痛くて練習でも何もできていなかった。相手に技もかけられないし、自分の思う柔道ができなかった。練習していなかったから仕方のないことではありますが、体に表れていました。今思うと78キロ級から100キロ級までよく階級を上げたな、と思います。
ただ、柔道の試合をしたいということは全くなかった。柔道は当然、続けたかったけど、試合に出る気はなかった。それにこのころには、すでに「PRIDE」の話が進んでいました。そう、自分は新たな道、総合格闘技に進むことを決断していたんです。
それまでプロレス、格闘技の大会にゲストとして呼ばれていました。興味はあったけど、リングに上がるつもりは全くなかったですね。小川(直也)先輩とかプロレスに行った先輩はいたけど、プロレスは自分の性分には合わない。何より、プロレスや格闘技に行ったら、規定で柔道界に戻ってこられないことが大きかったからです。
ただ、高田延彦さんとヒクソン・グレイシーの試合(1998年10月、東京ドーム)、船木誠勝さんとヒクソンの試合(00年5月、同)を見に行った時「俺ならこうするな。絶対、勝てるな」と。誰に? もちろんヒクソンですよ。その時は本気でそう思っていたんです。
当時、木村(政彦)先生とヒクソンのお父さん、エリオ・グレイシーの試合(※)映像を見ましたが、木村先生がボコボコにしていたじゃないですか。柔道とグレイシー柔術には差があると思っていたし「柔道と柔術の違いって何?」としか考えていなかった。「寝技だけでも絶対、負けないな」と。だからヒクソンに負ける気なんて、全くしなかったですね。
そうして自分は、グレイシー柔術との戦いに向かっていったのです。
※1951年10月、ブラジル・リオデジャネイロのマラカナンスタジアムで行われた伝説の死闘。柔道史上「最強」の木村が、グレイシー柔術の創始者エリオの腕を折って一本勝ちした。