【波瀾万丈 吉田秀彦物語(14)】2002年4月に柔道引退後、PRIDEのリングに上がることを決意しました。格闘技の練習はきつかった。肋骨骨折もしょっちゅうあったし、グラウンド自体も柔道の寝技とは全然違う。だから高阪剛のジムに毎週行っていろいろなことを教えてもらいました。
それにリングに上がるのには覚悟が要りました。PRIDEは「殺(や)るか、殺られるか」の戦場。正直に言えば、リングでいつ死ぬかわからない。心を決めていく必要がありました。
初戦はグレイシー柔術のホイス・グレイシーに決まりました。なぜかはわからない。PRIDEからオファーが来たから受けたまでです。ただ試合は打撃のないグラップリング戦です。自分から望んだルールではないけど、ホイスもそのルールをのんでいた。でも打撃がなくて良かったとは思いました(笑い)。
デビュー戦は02年8月28日の「Dynamite!」(国立競技場)に決まりました。大きい舞台でやるのは初めてで緊張しましたね。花道を歩いたときはアドレナリンが湧いてくるのがわかって気持ちよかった。当日は(総合プロデューサーの)石井(和義)館長とも(アントニオ)猪木さんとも会話した覚えはなく、他の試合は全然覚えていないです。
ただ柔道では重量級の選手とも戦ったし、ホイスに力負けすることはないと思っていました。柔道にはない足への関節技が嫌だったくらいで不安はなし。決着方法はKOがなく、相手が「参った」するか、絞め落とすしかない。試合では時間がたつにつれて、ホイスに一本を取られることはないなと考えていました。
ホイスを投げる? やりたくてもできないですよ。グレイシー柔術はいきなり寝技に引き込んでくるんだから。腹が立って仕方なかった(笑い)。負けるとは思わなかったので、あとはどう決めるか。そこでずっと練習していた「袖車」(※)がうまく入った。絞め技が決まり、ホイスを絞め落としました。
自分が勝ちました。でもグレイシー側は「落ちていない」と。はっきり言って…絶対に、完全に落ちています。映像を見てもホイスの手がパタンと落ちていた。意識があると、あんなふうには下がらない。格闘技も柔道も絞め落とせば一本勝ち。自分も絞めながら「落ちてる、落ちてる」とレフェリーに訴えました。何より失神すると失禁の可能性があります。テレビ中継のある試合で恥はかかせられないですよ。
ただ向こうも仕事だから負けを認めたくなかったのでしょう。「落ちた」とは思っていましたが、負けを認めるか認めないかは相手の問題だから。ホイスにどうこうはありませんけど。
※袖車絞め。自身の柔道衣の袖口を使って相手の喉元を絞める技。柔道家・小室宏二氏の得意技として知られる。通称「コムロック」。