【石井館長が明かす年末格闘技の舞台裏(3)】TBS系で中継された2001年の大みそか格闘技イベント「INOKI BOM―BA―YE」(さいたまスーパーアリーナ)が大成功したことを受けて、02年も01年大会を踏襲しつつ、年末のイベントを行うことになりました。
02年はボブ・サップも出てきて「K―1ここに極まれり」という状況でした。8月には国立競技場で「Dynamite!」を開催し、その盛り上がりをそのまま持ってくるように大みそかの「INOKI BOM―BA―YE」を開催しました。
この大会で総合格闘技デビューしたのが現WWEスーパースターの中邑真輔選手です。当時の印象ですか? スター性がすごいあると思いました。ちゃんと強いし。もともとそういうトレーニングをしっかりしていて、いい選手になると思ったから総合の方に来てほしいなと思ったくらいです。あのころから全然違いましたよ。スター選手になる子は最初からそういうものを持ってるんですよね。
だけどこのころ、僕の周辺は大変でした。02年の9月始めに、いわゆる“マルサ”が入った。それで、12月7日の「K―1 WORLD GP」が終わったのに合わせて「逮捕か」みたいな報道が流されて…。この当時は僕もK―1を守るためと思って行動したのですが、結果として運営会社「ケイ・ワン」の法人税法違反容疑で在宅起訴され、僕は03年からK―1の役職を離れました。この時の経緯は以前の連載で詳しく話しているので興味のある方はそちらを読んでください。
格闘技界はこれで全ての磁場が狂ったんです。「次の石井和義は誰だ」みたいになった(苦笑)。そうした混沌とした中、03年の大みそかのイベントは分裂します。「PRIDE」はフジテレビ、「INOKI BOM―BA―YE」は日本テレビ、「K―1」はTBSと、それぞれ組んで興行を行うことになりました。
この騒動は結局、テレビ各局の特別な思い入れが一番の要因だったんだと思います。それぞれプロモーターの思惑もあるけど、それ以上にあの当時、民放テレビ各局はNHK「紅白歌合戦」への対抗意識が強かったんですよ。各局、なりふり構っていませんでした。あんな騒動はもうないんじゃないですかねえ…。
この時、僕自身はマッチメークはノータッチでした。ただ話が出て、すぐプロダクションなどに接触し、タレントの藤原紀香ちゃんとか野球界の長嶋一茂とか清原和博、相撲界の貴乃花とかを大会に呼んで、誰もがイベントに注目してもらえるように奔走しました。いわゆる“後方支援”ですよね。リング外のことで少しお手伝いをしていました。