【平成球界裏面史 近鉄編88】平成15年(2003年)、オフにタフィー・ローズは8年間にわたってプレーした近鉄バファローズを退団することになった。51本塁打で自身3度目の本塁打王を獲得したオフだった。複数年契約を希望するも、近鉄サイドはかたくなに拒否。背景には近鉄グループの巨額の赤字や、球団単体でも40億円ほどといわれた経営難があったのだが、ファンや本人にとってはそんなことは問題ではなかった。
8年間、慣れ親しんだ大阪にローズは未練を残したままジャイアンツの一員となった。野球選手としては最もいい条件で契約を用意してくれた巨人に移籍する判断を下した。それに後悔などの感情はなかったが、本音ではとにかく寂しかった。
「一番ツラかったんは、近鉄で長年にわたってプレーしてきた仲間と別れることやで。大阪から離れて他の地に住むという事実も最初は受け入れにくかったけどね。僕の日本での思い出は近鉄バファローズと大阪という街に集約されてからね。いいことも悪いことも全部、思い出。27歳から35歳の人生が詰まっている」
シーズンオフに米国に帰国していた期間中も、巨人のローズにはなりきれていなかったという。近鉄時代のユニホームも米国の自宅に持ち帰り大切に保管している。セ・リーグへの移籍ということもあり、次のシーズンで近鉄と直接対決することはないにせよ複雑な気持ちが残ったままだった。
来日期間が長期にわたったため他の外国人助っ人とは違い、ローズにはプライベートや通勤での運転を許可されていた。ハーレーダビッドソンのような大型バイクとイカついRVタイプの車を好み、関西の高速道路を自由にドライブしていた。パ・リーグMVPに輝いた平成13年(01年)には、世界的に認知されたバイクメーカーのカワサキから超巨大な1500CCのバイクを贈呈されていたほどだ。
ただ、いつまでもぐずぐず言っているわけにはいかなかった。契約書にサインをしたからには巨人のためにその打棒を振るうことが仕事だ。「ユニホームを着れば気持ちも変わる」と話していた通り、ローズは希望した複数年契約に応じた巨人に恩返しすべくコンディションを整えた。
当初は推定年俸5億5000万円の2年契約と契約条件が報道されていた。しかしながら、都内で行われた入団会見で本人が合計するとインセンティブを含め10億円ほどになる可能性があることを〝暴露〟してしまった。これには巨人の通訳も大慌て。必死に否定したが当時は大きく報じられた。
近鉄であればどれほどの報道になったのか、それともそれだけの契約条件を提示しなかったのかも分からないのだが…。プレーする前にいきなり巨人の洗礼を浴びせられるスタートとなったが、そんなことでビビるローズではなかった。
契約条件に全く負けないプレーで、ローズは巨人の助っ人という重圧を吹き飛ばした。移籍初年度の平成16年(04年)は45本塁打で自身4度目の本塁打王を獲得。両リーグでの本塁打王を経験した外国人選手は初めてという快挙だった。