【昭和~平成スター列伝】“世界の16文”として一時代を築いた故ジャイアント馬場が亡くなってから25年。命日の1月31日には「没25年追善~太陽ケア引退試合~木原文人リングアナデビュー35周年記念大会」が後楽園ホールで開催される。
数多くの後楽園でのメモリアルマッチでも記憶に残るのは、やはり1981年1月18日、AWA世界ヘビー級王者バーン・ガニアとPWFヘビー級王座をかけたダブルタイトル戦「3000試合連続出場記念試合」だろう。帝王・ガニアとは意外にも初対決。実に3400人の大観衆が大一番に熱い視線を注いだ。
「3000試合連続出場記念試合――世界マット史に並ぶべき者がいない大偉業だ。馬場は3000試合の一つひとつをかみしめるようにリングへ。キャリア30年のガニアと20年の馬場。馬場が先手を取った。グラウンドのヘッドロックでグイグイとガニアのスタミナを奪う。10分過ぎまで馬場が攻めてネックブリーカーから河津落としと大技を連発。しかしガニアは譲らず十八番のスリーパーホールド。1分、2分、3分…14分55秒、馬場がギブアップだ。ストレート勝ちを狙うガニアは執ような裸絞め。しかし馬場はカウンターの水平打ちから16文踏み潰しの殺人技。ドロップキックをかわした馬場は河津落としからカウンターの16文キック。3分58秒、ガニアはマットに沈んだ。3本目、馬場は脳天唐竹割り、河津落としから32文ロケット砲。ガニアも粘る。しつこいくらいにスリーパーホールド。2人の体は折り重なってリング下へ。ラフに強い馬場はリング下の戦いを制してマットへ。しかしガニアが腰へ抱きついた。その時、場外カウントを告げるゴング。5分25秒、大勝負は1対1の痛み分けに終わった」(抜粋)
馬場は「ガニアは強かった。3000試合を振り返るとあのキニスキー、サンマルチノら好ライバルとの死闘、初めてNWA王座についたブリスコ戦などが脳裏をかすめた。しかし何といっても昭和45年の夏、D・F・ジュニアとフルタイムで戦った試合が強烈に思い出される」と偉業達成後に振り返った。
和田京平名誉レフェリーは後日に「あの時の社長は全身に闘志がみなぎっていつもと違った。AWAというタイトルよりガニアという大物に負けてたまるかという気持ちのほうが大きかったと思う」と述懐している。
74年12月2日鹿児島でジャック・ブリスコから日本人として初めてNWA世界ヘビー級王座を奪取し、79年10月31日名古屋と80年9月4日佐賀ではハーリー・レイスを破り、3度のNWA王座奪取に成功。実は「3000試合~」第2弾として81年2月15日後楽園でレイスのNWA王座に挑んで勝利したが、3本目は反則のため王座は移動しなかった。
全盛期は過ぎたとはいえ、まだトップに君臨し続ける実力を証明した3000試合連続出場記念試合だった。馬場は生涯を通じて「5759試合」(没後の引退興行含む)というとてつもない大記録を樹立している。
(敬称略)