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【吉田秀彦連載#30】パーク24柔道部の監督に就任!頭を使って作戦練りました

東スポWEB 2025年1月29日 16時13分

【波瀾万丈 吉田秀彦物語(30)】柔道界の新たなルールにより、プロ格闘技に転向しても引退から1年たてば、指導者として登録(選手の場合は3年)が可能になり、2011年5月にパーク24柔道部の監督に就任。指導者という新たな道を歩み出しました。

都内で、これだけの立派な道場と寮を持っているのはパーク24だけだと思っています。自分としては、それが条件で監督を引き受けたということもありました。他がやっていないことをやらないと、人は入ってこない。その代わりに「結果を出さないとダメだ」「やるからには一流にしないといけない」と、自分にプレッシャーをかけました。それがパーク24に対する恩返しにつながると思ったからです。

だから、最初は「作戦を練らないと」と、考えました。みんな、自分が頭を使ってないと思っていますが、実は使っているんです(笑い)。

まずは、チームにとって「軸」になる選手を取らないといけない。選手の実力は、大学時代に大体わかります。ちょうどその時、国際舞台でも活躍していた海老沼匡(まさし)が、明治大学柔道部の3年生でした。「彼ならきっと五輪に行ける」と確信していましたが、その一方で「うちには来ないだろうなあ…」と(笑い)。

それで、自分が考え出したことが「彼のお兄ちゃん、海老沼聖(さとる)をスカウトしよう」ということでした。当時、彼は警視庁に所属して活躍していましたが、こう相談を持ちかけました。

「パーク24柔道部ができたけれど、俺一人では無理。実業団でコーチをやってもらえない?」。すると彼は「やりたいです」と返答してくれました。心の中で「ラッキー!」と、叫びましたよ(笑い)。そうしたら、兄を慕う弟もチームに入ってくれたんです。何よりお兄ちゃんはそれからずっと頑張ってくれていて、部の屋台骨を支えてくれています。現在は男子監督となり、彼には感謝しかありません。

匡も五輪では運がなかったですが、ロンドン、リオデジャネイロで銅メダルを2個獲得。世界選手権は3回も優勝しました。何より海老沼匡が入ってくれたことで「パーク24の柔道部って、しっかりやっているんだ」と認知されるようになりました。これが一番大きかったですね。

当時は柔道部の人数も少なかったので、練習はバリバリにハードなものでした。そこに橋本壮市(※)も入ってきた。彼は強化選手ではなかったですが、たたき上げて世界選手権、そして五輪にも出られるようになった。他の選手も学生時代より結果が出るようになり、そこは本当に良かったなと思っています。

※ 2017年世界選手権73キロ級優勝。24年パリ五輪同級銅メダル。

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