【昭和~平成スター列伝】“世界の16文”として一時代を築いた故ジャイアント馬場が亡くなってから26年。命日の1月31日には「没25年追善記念大会」が後楽園ホールで開催された。馬場の最大のライバルにして盟友だったのが、元WWWF(現WWE)世界ヘビー級王者の“人間発電所”ことブルーノ・サンマルチノだ。馬場は2度目の米国遠征で1964年2月17日MS・Gで同王座に挑戦し、惜敗。それ以前からお互いの存在と力量を認め合い、苦楽を共にして競い合う間柄だった。
サンマルチノは63年5月から71年1月までWWWF王座を保持。長期政権を築き「ニューヨークの帝王」と呼ばれた。初来日は67年3月。同2日大阪と7日蔵前では馬場のインターナショナルヘビー級王座に挑んでいる。日本での初対決はファンが待ち望んだ大一番だった。
「ファン待望のMSGシリーズは“人間発電所”を迎え華やかに幕を開けた。1万1000人のファンが世紀の一戦を期待する異様なムードが充満する。1本目から激しい攻防となり、サンマルチノが馬場の体当たり攻撃をニースタンプで捕らえ、必殺のベアハッグで先制。だが馬場も懸命に追い上げて、随所で脳天空手打ちを効果的に叩き込んでサンマルチノをKO。3分でタイに。3本目はパンチとベアハッグでサンマルチノがラッシュすれば、馬場はこれをかわして脳天空手打ちを見せるなど一歩も引かない。大詰めは両者がベアハッグのまま場外に転落し場外の大乱闘となった。結局1対1の引き分けとなり、馬場が9度目の防衛を果たした。なお、7日蔵前国技館で馬場とサンマルチノがインター王座をかけて激突する」(抜粋)
再戦でも1対1から60分引き分けの激闘で馬場が防衛を果たす。あまりに有名なエピソードだが、来日時に発電所が馬場にキャデラックを贈ったという逸話が残っている。和田京平名誉レフェリーはこう述懐する。
「馬場さんはよく『俺とサンマルチノがやると必ずMS・Gがフルハウスになるんだ』と言ってた。つまりパーセンテージも取れるから他のレスラーもギャラが上がる。そこで信頼関係が生まれたんじゃないかな。リング上では激しく戦って終わればシェイクハンド。持ちつ持たれつというか、米国では日本人とイタリア人という似たような立場だったから信頼関係は厚かった。馬場さんがクラウンで食事に迎えに行ったら『こんなに小さな車に乗ってるのか』と驚いてキャデラックを贈ってくれたんだ。その話をすると馬場さんはいつもニコニコしていたよ」
サンマルチノは馬場が全日本を旗揚げした後も参戦。日本では他のリングに上がろうとはしなかった。73年12月にWWWF王座に返り咲くと、75年5月9日日大講堂では日本初のWWWF戦(PWFとのダブル王座戦)が実現も引き分けに終わった。発電所は馬場没後の引退興行(99年5月2日東京ドーム)での“引退試合”にも参列。異国で苦労した後に一時代を築いた者同士にしか分からない「絆」が両雄にはあった。 (敬称略)