【プロレス蔵出し写真館】今から31年前の1993年(平成5年)2月14日、NOW(ネットワーク・オブ・レスリング)の後楽園ホール大会で、交通事故で亡くなった故直井敏光さん(享年26)の追悼マッチが行われた。
直井さんは期待されていた若手レスラー。この年の1月8日、直井さんは人手不足のため、急きょリングの機材を運ぶトラック運転手を言われた。
4トントラックで福井市内から東京へ帰る途中、福井県敦賀市葉原の北陸自動車道上り車線を走行中に道路右側の斜面に衝突して横転。同乗していた川畑輝(後の輝鎮)と福井県武生市内の病院に運ばれた。川畑は左上腕骨と右足に重傷を負い全治6週間の診断。一方、直井さんは手当てのかいなく「頭蓋底骨骨折」で亡くなった。
さて、23日に行われた社葬にはFMWの大仁田厚が参列した。翌日、大仁田は「NOWに対し、同じインディペンデント団体として協力できるところはしていきたい」と交流戦の実現を示唆した。
そして、27日にNOWの事務所を訪れ、ケンドー・ナガサキ(桜田一男)社長と並んで会見を開くと「直井君の告別式でサクラダ代表になにかできることがあれば、と申し出た」とサクラダとの〝社長〟タッグ結成が決まったことを発表した。
その後、サクラダ&大仁田組がメインイベントで上田馬之助&鶴見五郎組と激突することが決定した。
まさか、この試合が〝観客不在〟のトンデモナイものになるとは誰も予測しなかったろう。
ゴングが鳴ると、鶴見が「来い!大仁田。お前が出てこい!」と挑発。大仁田も反応し、ナガサキを押しのけ先発を買って出た。頭突き4連発の大仁田に対して、鶴見は裏拳2発で反撃。
大仁田とナガサキはタッチワークもスムーズで、何度も組んでいたかのような連係を見せる。大仁田が場外で鶴見の攻撃を受けると、ナガサキが救出に駆け付け〝友好ムード〟をかもし出した。かたや上田と鶴見組は異様な雰囲気だった。戦っているのは鶴見だけ。上田は鶴見のタッチの求めに、ただの一度も応えない。まったくリングの中に入らなかった。
鶴見が自軍コーナーに戻ってくると、エプロンを歩いてニュートラルコーナーへ移動して鶴見を無視。鶴見がナガサキと大仁田につかまり2人がかりの攻撃を受けても、助けに入るどころか、われ関せずコーナーで見つめるだけだった(写真)。
この状態が最後まで続き、試合はナガサキが鶴見にジャンピングパイルドライバーを決めて11分51秒、体固めで決した。当時の東スポは〝上田がリングにいたのはわずか10秒〟と報じた。
試合後に大仁田とともに来場したターザン後藤とやり合うナガサキ。止めに入った大仁田をエルボーで振りほどくと、イスを振り下ろした。ダウンした大仁田をさらにイスで殴りつけて引き揚げた。
ダウンしてリングにひとり取り残された大仁田は、ふらふらと立ち上がるとマイクで直井さんの遺影に向かいマイクアピール。それからFMWで披露するパフォーマンスを〝控えめ〟にやって引き揚げた(※水は吹かなかった)。
上田は控室で「ヤツらが戦うのは勝手。だったらオレたちでなく大仁田と後藤が組んでナガサキ、維新力とかでやればいい」と吐き捨てた。
翌日、FMWの宮崎大会で大仁田は「ヤツらには最初から〝友好〟の気などなかった。タッチをしない上田もナガサキとグルになって、オレを陥れる罠だったんだ」。団体ぐるみだと決めつけた。ナガサキには有刺鉄線でケリをつけようと呼びかけた。
団体抗争に発展する〝流れ〟かと思われたが、いつの間にか鎮火してしまった。
事情通は「不穏試合? そんなんじゃない。上田さんは大仁田のことが大嫌いだった。FMWに桜田さんが上がったとき(90年3月、ドラゴン・マスターのリングネームで参戦)、桜田さんは『上田さんとコンビで』と大仁田に頼んだ。大仁田は『ギャラが高い。上田さんは勘弁してほしい』と断った。上田さんはそれで頭にきたようです」と明かす。
そして、「追悼マッチで大仁田がいつものパフォーマンスをやってるとき、上田さんが『降ろせ! あの野郎を降ろせ! あんなこと人のリングでやらすな』って控室で怒ってた。上田さんも(控室で)怒るくらいなら、シュートを仕掛けりゃよかったんですよ。シューターとかなんとか言われてたんでしょ」と憤慨する(前出の事情通)。
大仁田とナガサキは団体抗争を画策したが、〝大仁田嫌い〟の上田が反対して駄目になったと語る関係者の声もある。
いずれにしても、上田が追悼マッチ当日のファンを〝置いてきぼり〟にしたのは事実。上田とタイガー・ジェット・シンというオールドネームに頼ったNOW(第1次)が早々と消滅してしまったのもうなずける(敬称略)。