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【吉田秀彦連載#34】「こんなになったのか…」古賀稔彦先輩の姿にショックを受けました

東スポWEB 2025年2月5日 16時8分

【波瀾万丈 吉田秀彦物語(34)】1992年バルセロナ五輪金メダルの古賀稔彦先輩が2021年3月24日、53歳で亡くなりました。病気(がん)になったことは1年以上前から知っていました。手術して元気になり、前年秋に講道館杯の会場で先輩と会えました。しかし、その後に「再発した」と聞き、自宅療養中にお見舞いに行くも、奥さんから「体調が悪い」と伝えられました。実際、誰も先輩に会うことができず、どういう状況だか全くわからない。

それでも古賀先輩のお宅を訪れました。ある日、奥さんに連絡し「来ました」と伝えると「今日は会っていってください」と。そこにいた古賀先輩は痩せていて、今までの姿とは全く違うんです。「こんなになったのか…」。大きなショックを受けました。子供たちもいたので、寝たきりの先輩に話しかけ、元気づけて帰りました。

その翌朝に亡くなりました。亡くなる前に会えたのは、自分だけなんですよ。お兄さんから連絡をもらい自宅に向かいましたが、前日に会ったばかりだから信じられない。自宅で亡くなったので家族もどうするべきかわからず、自分が葬儀の手配などを手伝いました。最期に会えたのは、そういうことを任されたのかもしれない。そうは思いたくありませんが…。

葬儀までは毎日、先輩の自宅に行きました。当時はコロナ禍の真っただ中。自粛ムードの中での葬儀に、ためらいがありました。自分たちは古賀先輩を中心に仲間内で「酒遊会」をつくっています。文字通り、お酒で遊ぶ会です。そのメンバーと「誰が何を言おうともやろう」となりました。

葬儀が執り行われた川崎市内のお寺にはうちの墓もあります。住職は先輩で自分の両親が亡くなった時にお墓を建てました。葬儀は仲間みんなでやりましたが、あんなに参列者が来てくれるとは思いませんでしたね(※)。改めて思うのは古賀先輩のすごさです。コロナの時期にあれだけの人が来てくれた。先輩の雄姿が、どれだけ多くの人の記憶に残っていたのかがわかりました。

葬儀に尽力してくれたメンバーのため「思い出の品を」とカシオさんにお願いし、腕時計「G―SHOCK」の“三四郎モデル”を作ってもらいました。21年夏の東京五輪では奥さんと相談して選手にも渡しました。古賀先輩の遺志を継いでもらいたかったんです。

それにしても、あんなに早く亡くなるとは…。人生、おいしいところだけ楽しんで、早く逝っちゃいましたね(笑い)。23年4月には先輩の長女、古賀ひよりがパーク24柔道部に入りました。「本当に縁があるなあ」。古賀先輩が亡くなり4年がたとうとしていますが、そう感じています。

※ 約1000人が参列した。

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