【宮崎祐樹連載 オリのゴリBsを知り過ぎた男(最終回)】あれは僕が7、8年目の2017、18年ごろでしたかね。楽天戦の試合後だったと思います。その仙台遠征中に、セガサミーやオリックスで後輩だった左腕投手の大山暁史と食事に行った帰りの出来事でした。たまたま解説の仕事で来られていた岡田彰布さんとホテルが同じで、エレベーターホールで偶然お会いしたんです。
エレベーターを待っていたら「チーン」と鳴ってみたいなシチュエーションです。「お先にどうぞ」と促すと「おーん。何や、一緒に乗れよ」と招き入れてくれました。
お言葉に甘えて狭い空間に同乗させてもらい、本当に短い時間でしたが会話する機会を得たんです。「おお、宮崎。元気やったんか。よう今まで(現役で)おったなあ」。覚えていてくれたんですね、と思わずリアクションしてしまいました。
「そんなんお前、覚えてるよ。(ドラフトで)俺が獲った選手やんか。右の代打でなあ。俺は期待しとったんよ。お前、パク・チャンホ(朴賛浩)から打ってなあ。あれで(相手が)おかしなってもうたやんか」
遠い昔の記憶です。僕が1年目だった11年シーズン。3月11日に東日本大震災が発生した影響でオープン戦をできない状況でした。そのため京セラドームで紅白戦をしたんですが、外野手が足りないので急きょ僕が二軍から招集され、韓国の至宝でメジャー帰りの新助っ人、パク・チャンホと対戦したんです。
そこで僕は何と京セラの左翼5階席に達する特大ホームランを打ってしまい、その次の打席でも三塁打を打ったはずです。すると、誰かも分からないバッターに思い切り打たれてしまったパク・チャンホが調子を崩してしまったんですね。岡田さん、そんなことまで覚えてくれていたんだな…とノスタルジックな気持ちになりました。
オリックス在籍時は「おう、頑張れよ」くらいしか言われたことがない遠い存在です。エレベーター内の短時間で、岡田監督がオリックスに在籍されていた時のトータルよりもたくさんのお話をさせていただきました。
今では僕も現役を引退して保険営業マン、社会人軟式野球チームの監督になるなど時計の針は未来に向けて動き続けています。監督になって初めて分かったことですが、起用しづらい選手も確かにいます。その立場を経験しないと分からない気持ちってあるんだなと実感しています。
いよいよスペースがなくなってきました。この連載を読んでくれていたオリックス関係者も多く、舞洲ではいろんな人が声をかけてくれます。今季から一軍投手コーチに就任した比嘉幹貴さんには「いつも読んでるよ。面白いやん」という評価をいただきました。
佐賀に生まれ、長崎日大高、亜細亜大、セガサミー、オリックスと多くの人々との出会いに支えられてきたなと思います。今でもこうやって野球に携わり、取材してもらえる環境に感謝しています。
読者の皆さま、長い間お付き合いいただきましてありがとうございました。現役最後のプレーとなった19年オフ、舞洲で行われたトライアウトでいただいた大きな声援を忘れることはありません。全ての出会いに感謝してこれからもまい進していきます。ありがとうございました。また、どこかでお会いしましょう。(おわり)