【プロレス蔵出し写真館】2月16日に後楽園ホールで行われるウナギ・サヤカの自主興行「殿はご乱心 我が名は」で、女子プロレス初のワンマッチ興行でウナギ vs 里村明衣子の一騎打ちが行われる。
日本で史上初のワンマッチ興行が行われたのは、今から38年前の1987年(昭和62年)1月14日の新日本プロレス、後楽園ホール大会。藤波辰巳(現・辰爾)と木村健吾(後の健悟)がシングルマッチで激突した。
前年の12月10日、木村の挑戦状に端を発し、大阪城ホールで4年ぶりに藤波 vs 木村のシングル対決が実現した。結果は12分30秒、藤波が前方回転エビ固めで勝利。東スポは「期待はずれの小技V」と辛らつな小見出しを付けた。
2人も不完全燃焼と感じたようで、年明け早々の再戦を訴えた。
年が明けると、1月2日の後楽園大会で実現。木村は「負ければ日本を離れる」と宣言した。その当時、練習していたボクシング風のパンチ攻撃で圧倒し、最後は稲妻レッグラリアートで藤波から3カウントを奪った。ところが、木村の左スネに当てているサポーターから鉄製の凶器がこぼれ落ち、場内は騒然。結局、ノーコンテストと判定が覆った。
木村は「藤波を潰すことしか考えてない」。そう、うそぶいた。それを伝え聞いた藤波は、翌3日の後楽園大会での再々戦をアピール。荒れた試合となり、両者ともパンチ、キックを乱打。藤波は木村を流血させると、制止に入ったミスター高橋レフェリーを2度投げ飛ばし、あっけなくゴング。わずか4分22秒で藤波の反則負けとなった。
試合後に揉み合う両雄に「やるなら正々堂々とやれ。オレがレフェリーをやってやる」。アントニオ猪木がそう言って、ようやく収まった。坂口征二副社長の口からは「このシリーズ中に藤波 vs 木村の1試合だけの興行をやらせる。場合によっては、客を入れないでやることになるかもしれない」とワンマッチ興行を示唆する発言が飛び出した。
木村は翌日の川崎大会を無断欠場。藤波は「今晩、木村と直接連絡を取って話し合う。14日に後楽園ホールを仮押さえしてあるので、やる意思があるのかないのか確かめる」と語り、事実上、ワンマッチ興行が決定した。
7日に東スポは雲隠れしていた木村をキャッチした。木村は足立区保塚町の吉原整体治療院(吉原達夫院長)で治療中だった。木村は、写真映えはするが、ともすれば強引とも思える施術を耐えていた。
木村は「自分は負ければ日本を離れ、海外で修行し直す覚悟を固めた。藤波も同じ決意で、この一戦に臨んでもらいたい」と厳しい表情で決意を語った。
8日に会見が行われ、正式に発表された。当日は午後7時から若手の公開練習が行われ、7時30分ゴング。大人2000円、子供1000円、すべて自由席と決まった。また、リングはフェルトを抜いて硬くすることも決定した。
レフェリーは猪木かと思いきや、13日に上田馬之助が名乗りを上げて、特別レフェリーに決まった。
さて、14日のワンマッチ興行は藤波が稲妻レッグラリアートにきた木村(写真)の左足をキャッチすると、サソリ固め。さらに逆エビ固めからバックドロップ。最後は逆片エビ固めをガッチリ決めて17分32秒、木村がギブアップ。藤波が決着戦を制した。
木村は「レスリングをこれから続けるかどうか、ということも含めてしばらく考えたい」と涙にくれた。
ところで、この時のワンマッチ興行は切符が当日売りだけだったこともあり、後楽園の切符売り場に長蛇の列ができた。一番乗りは朝の6時30分で、その後も続々と人が押し寄せ、正午から発売されたチケットは14時過ぎに売り切れた。それでも列をつくって帰らない客に、新日プロ側は見かねて300枚を追加発売したが、これもあっという間になくなった。
「まだ追加があるかもしれない」といつまでたっても人は帰らず、その数約700人。一時は遠く地下鉄の駅まで達するほど。観衆発表は超満員2200人。新日プロ側はホールの使用料約80万円を払っても、わずか1試合で400万円興行となりホクホク顔。関係者からは「両国国技館にすればよかった」。真剣に悔やむ声が出ていた(敬称略)。