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東京下町の隠れ名物?「ゴツい鉄橋」なぜ多い 100年前の「教訓」と「至上命題」から生まれた納得の理由とは

乗りものニュース 2024年9月1日 15時42分

東京都江東区を流れる川には、「トラス橋」や「下路アーチ橋」が多く架けられています。このような無骨な鉄橋が造られたのはいずれも100年ほど昔ですが、ゴツい鉄橋が採用されたのには、複雑な経緯と納得の理由がありました。

後藤新平の「置き土産」

 東京を流れる隅田川の東側、いわゆる江東地区(墨田・江東両区)には、ゴツい鉄製の道橋が少なくありません。これは、大阪や広島、徳島など他の「水の都」では、あまり見られない光景といえるでしょう。

 江東区を一直線に横切る小名木(おなぎ)川を見ても、葛飾北斎の浮世絵『冨嶽三十六景 深川万年橋下』でも有名な萬年橋や、西深川橋、新高橋、新扇橋、小松橋という具合に軒を連ねます。

 しかも江東地区は特に「トラス橋」と「下路アーチ橋」が目につきます。どちらも鋼材をリベット鋲で接続し、幾何学的に組み上げた重厚感、無骨さがたまりません。

「トラス橋」は、鉄骨を三角形状に組み上げた上部構造(橋桁より上の構造部分)が特徴で、鉄道の鉄橋としてよく使われています。

「アーチ橋」は、橋梁の荷重を支える弓状のアーチ型部材を施す方式です。アーチ部材が上部構造となり、道路(橋桁)がその下に配置される形式を「下路アーチ橋」、逆に道路の下にアーチ部材がある形式を「上路アーチ橋」と呼びます。

 驚きは、江東地区の街中で見かける鉄橋のほぼ全てが、「震災復興橋梁」だということです。

 101年前の大正12(1923)年9月1日、関東大震災が発生し、旧東京市(現在の都心部分)の東半分は、大火事でほぼ焼失しました。

 そこで復興に立ち上がったのが、当時内務大臣で「大風呂敷」と呼ばれた後藤新平です。初代鉄道院総裁や南満州鉄道(満鉄)総裁などを歴任した実力者で、帝都復興院総裁に就任し、人類史上最大級の帝都復興計画をぶち上げます。

 パリやロンドンにも負けない、美しい超近代都市の建設を目指すもので、震災復興橋梁はその目玉の一つでした。

 震災から昭和6(1931)年までの短期間に、市内だけで実に400橋以上が架けられ、うち半数の約200橋を江東地区が占めました。隅田川の著名な永代橋や清洲橋、両国橋、吾妻橋などは、震災復興橋梁の代表格です。

 つまり、これらはすべて、ここ数年以内に100歳を迎える“超“長老で、「アラセン」(センチュリー=1世紀)でもあります。

震災復興橋梁が江東に集中した理由

 江東地区に震災復興橋梁が集中したのには理由があります。

 この地域は、江戸時代から木材集積地の「木場」が控え、筏(いかだ)の運搬が盛んでした。同じく一帯は工場進出が盛んで、原材料や製品の輸送に水運を主力にしていました。このため江東地区には、河川・運河が縦横無尽に張り巡らされていました。

 必然的に橋も多数架けられていましたが、ほとんどが木製だったため、大半が震災で焼失してしまい、新な橋の構築が必要不可欠だったのです。

 ただし不思議にも、他の地域よりもトラス橋が圧倒的に多いのです。

 江東地区内の約200橋のうち最多は「桁橋」で、全体の実に9割を占めますが、次に多いのがトラス橋の26橋です。トラス橋の数は東京市全体で27橋なので、ほぼ全てが江東地区といっても良いでしょう。

 確たる理由は不明ですが、前述の水運が関係しているようです。

 震災復興であるため、スピードと建設費圧縮が重要で、そう考えれば、通常は手間・ヒマ・コストで有利な桁橋を採用するのが自然です。しかし、例えば川幅が20m超にもなると、当時の技術力では桁を構成する鉄骨の厚さをかなり太くしなければ、桁が曲がる危険性がありました。

 一方、江東地区は低地地帯で、川面から地面までは数mしかありません。ちなみに第二次大戦後は地下水組み上げがたたり、現在は「海抜ゼロ・メートル地帯」が広がります。

 つまり分厚い桁橋では、桁下高(川面から桁までの高さ)が狭くなり、船が通れなくなる恐れが生じます。また、川の中央に橋脚を設け、桁橋を架けたとしても、今度は橋脚が船舶の航行の邪魔になります。

 この結果、スパン(橋桁の長さ)を大きく取れる「トラス橋」と「アーチ橋」が現実的な選択肢となりますが、後者のうち「上路アーチ橋」も同様に、桁の下に分厚いアーチ構造部分を施すのでNGです。

 残りは「アーチ橋」「下路アーチ橋」の2方式に絞られます。どちらも荷重を支える構造物を橋桁より上部に配置でき、また橋桁も薄くできるため、船舶の航行にも都合が良いようです。

なぜトラス橋がやたらと多いのか

 建設費も両者は大差がないようですが、トラス橋の26橋に対しアーチ橋は6橋で、やはりトラス橋の方が圧倒的に多く採用されています。

 これは、鉄道院、満鉄のトップだった後藤が、昔の部下を帝都復興のキーマンとして起用したからでは、ともいわれています。

 トラス橋はすでに鉄道用橋梁として数多く建設され、さらに国内でも鉄道網が急成長した時期で、建設技術力アップや工期短縮など、脂の乗った時期でもありました。増え続ける需要にこたえるため、規格や設計もかなり統一され“量産化”が進んでいたのが「トラス橋」でした。

 一方、震災復興橋梁は1日でも早く、1橋でも多く完成させるのが至上命題です。このため、別の鉄道橋用に製造していた鉄骨を急遽転用し、製造ライン、技術者・職人も全国から動員したからでは、と推測されます。

「鉄道屋」の自分たちにとって馴染みある「トラス橋」の選択は、実に合理的だったのでしょう。

 大震災以前の東京の道橋の大半が木造で、数少ない鉄橋も橋桁はほぼ全部が木製でした。このため大火災で多くの橋が焼け落ちた結果、避難路を絶たれた多くの市民が焼け死んだり溺死したりしました。

 同じ過ちを繰り返さぬよう、震災復興橋梁の建設に臨んだ後藤は、あくまでも鉄橋やコンクリート橋といった「永久橋」にこだわりました。しかし、予算や工期などで実際は妥協せざるを得ず、川幅の狭い場所は木製の橋梁がほとんどでした。

 後藤のこだわりは、皮肉にも20年後に威力を発揮します。

 1945(昭和20)年3月9日深夜から10日未明、アメリカ軍のB-29重爆撃機の大編隊が東京を焼夷弾で絨毯爆撃し、江東地区は再び灰燼と化しました。しかし幸いなことに、震災復興橋梁のうち鉄橋のほぼ全部が空襲に耐えて避難路となったため、多くの被災者の命が助かっています。

 現在、江東地区に震災復興橋梁は20橋ほどしか残っていませんが、威風堂々たるゴツさは、いまだ健在です。

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