Infoseek 楽天

台湾イチ長いトンネルを抜けた村でなぜか「日本語がよく通じた」のですが… 地域の伝説「もう一回さん」

乗りものニュース 2024年10月20日 14時12分

台北の南東部にあたる宜蘭県の山間部は、日本統治時代の遺構などが数多く残る、日本とゆかり深いエリアなのです。そこでたまたま立ち寄った教会で、流暢な日本語を話す一人の少女に出会いました。

女の子に「トイレ貸して」返ってきた言葉は

 台湾・台北の南東部にあたる宜蘭県は、観光地の礁渓温泉や、巨大夜市で知られる羅東などがある県で、週末ともなれば台北からの日帰り旅行客で賑わいます。このエリアは台北からクルマで約1時間半、距離にして約70kmほどです。

 同地にこれだけ短時間でアクセスできる理由は、主に雪山隊道という約13kmの台湾いち長いトンネルのおかげ。直線が続くため睡魔が襲うトンネルですが、その先に見えてくる宜蘭県の太平洋の景色は感慨深いものがあります。

 さらに南下し羅東の中心部から西のほうに進むと景色がまるで変わり、のどかな農村が出現。やがて、台湾原住民・タイヤル族が暮らす山間部に入ります。界隈にはだんだん人影も商店もなくなり、川と山間部の景色が続きます。

 あるとき、筆者はこのエリアの寒渓村を運転中に用を足したくなりました。しかし、付近には商店などがありません。できればどこかでトイレを借りたいと思い、ようやく見つけたのがとあるキリスト教の教会でした。

 教会に立ち寄ると、中学生くらいの女の子が教会の片隅で勉強をしていました。ここで筆者はつたない中国語で「トイレを貸してほしい」旨を伝えたところ、女の子は「あなた日本人ですか。トイレ良いですよ。向こうです」と言います。瞬時に「ありがとうございます」と普通に日本語で返しましたが、女の子が日本語を喋ったことを不思議に思いました。

 台湾には、流暢な日本語を話す人が一定数います。日本統治時代生まれの方、そして後に生まれながらも日本語を学び独自に習得した若い世代まで。しかし、この女の子はまだ若く、どうして流暢な日本語を話すのかが筆者には謎でした。

 女の子にお礼を言いながら「どうして綺麗な日本語を喋れるのか」を日本語で尋ねました。すると女の子は「私は親から教わりました」と言い、さらには「ここではたくさんの人が日本語を喋りますよ」とも言います。

日本語が異部族間の共通語に

 何か釈然としないまま教会を後にしましたが、後でよく調べると、特に台湾東部から中央山脈にかけての山深いエリアでは今も日本語が残り、さらには「Yシャツ」「布団」「寝巻き」「野菜」「コップ」「話」「アンタ」「男」「女」「ある」「ない」といった日本語の単語が、そのまま現地語になっている例があることを知りました。

 主に台湾の険しい山間部には複数の台湾原住民が存在します。部族ごとに違う言語を使っていますが、異部族間でコミュニケーションをとる場合の共通語(クレオール)として、公用語の中国語のほかに、日本統治終了後も日本語が使われてきた経緯があり、それで今日もなお、台湾原住民の間で「日本語を喋る人」がいるのだと言います。

 そして、特に「日本語が混じる言葉を使う人が多い」と言われるのが、他でもないこの宜蘭県の山間部。この地で話される言葉は近年「宜蘭クレオール」と称されるようにもなりました。

 もう一つ、この寒渓村に隣接する冬山郷という村では「もう一回」という日本語が、地元の人たちの多くに知られています。

 これは日本統治時代、この地に警官として就任した小林三武郎巡査の伝説によるもの。小林巡査は、地元で採れるヒノキや樟脳の材料となるクスノキの違法伐採を取り締まる役職に就く一方、「村人たちの暮らしが豊かになるように」と、積極的にニワトリ、ブタ、トリなどの家畜の種付けを支援したそう。ときには役所からルールを破って家畜を持ち出し、村の農民に貸して種付けを促したと言います。

 村人たちが度々種付けに失敗しても、小林巡査は優しく接し「もう一回! もう一回!」と成功を促し続け、やがて村人たちに慕われるようになりました。そして、こんな小林巡査に親しみを込めて付けたあだ名は「もう一回さん」。この由来から地元では「もう一回」という言葉がよく知られているというわけです。

「かつての日本の面影」を各所で体験する台湾

 小林巡査は1944年にこの村で天寿を全うしますが、村人たちは村を守ってくれたその尽力から「地元の神」として祀り、そして、2000年代には土地を守る神「土地公」に昇格。今も村の一角の小さな廟の中から村を守り続け、そして村人たちは今日もなお「もう一回さん」を祀り続けるのでした。

 これらの台湾と日本の深い繋がりを示すエピソードは氷山の一角にすぎず、台湾の各所には日本統治時代の遺構が無数に現存し、そして日本および日本人に対し、深い親しみを抱いてくれる人が多いです。

 戦後の日本の教育やメディアでは、台湾にまつわる話は政治的な事情からか積極的にされてこなかった印象がありますが、戦後80年近く経過した今も台湾各所では、こんな「かつての日本の面影」を見聞きし、体験する場面が多くあります。

この記事の関連ニュース