1915年11月8日、日本が独自に設計した初の超弩級戦艦である「扶桑」が竣工しました。当時は戦艦を建造する経験が不足しており、その生涯は試行錯誤の連続でした。
日本が独自に設計した初の超ド級戦艦
1915(大正4)年の11月8日、日本が独自に設計した初の超弩級戦艦である「扶桑」が竣工しました。世界で最初に常備排水量が3万トンを超え、14インチ(35.6cm)砲を12門も搭載するなど、大きな期待のかかった戦艦でしたが、さまざまな問題点があり、その生涯は試行錯誤の連続でした。
日本の戦艦は、もともとが装甲巡洋艦から発達した「巡洋戦艦」であった金剛型4隻を除き、艦名には「長門」など旧国名が付けられていますが、「扶桑」は旧国名ではありません。そもそも言葉としての「扶桑」とは、中国で「東方の果てに生えている伝説の巨木」を指しました。艦名は漢語由来で、7世紀ごろより「日本」を指す言葉へも転じ、日本の異称となっています。
「扶桑」は1912(明治45)年3月に起工し、3年を経て竣工。旧式の河内型戦艦をベースに、イギリスへ発注された金剛型戦艦の設計も部分的に取り入れています。ただ、当時の日本は戦艦を建造する経験が不足しており、多くの問題が生じることになりました。
竣工後は分散して設置された主砲の爆風問題が無視できず、装甲配置や艦の運動性などにも問題を抱えており、1930(昭和5)年と1934(昭和9)年に大改装が行われます。
改装に際し、主砲は仰角が引き上げられたほか、最大射程も延伸されました。貫通力を上げた新型砲弾を運用可能にし、給弾速度も向上。特に2回目の改装は測距儀の更新や、水上機の搭載も行われました。速力も22.5ノットから24.5ノットに引き上げられています。
3番砲塔上には水上機を発進させるカタパルトが設置され、それまで艦尾を向いていた砲身が艦首向きに変わりました。その結果、艦橋の基部を拡大することが不可能になり、3番砲塔の砲身を避けるように艦橋が「くの字」型にそびえ立つ、違法建築ビルのような外観になりました。姉妹艦の「山城」は、改装後も3番砲塔を後ろ向きに繋止したため、「扶桑」のようなくびれた艦橋にはならず、外観が異なっています。
ただ防御力には大きな課題を残しました。強化はされたものの、自艦の36cm砲弾の直撃にすら耐えられない装甲部分もあったといい、魚雷に対する水中防御は抜本的に改善されませんでした。この欠点が最終的に「扶桑」の致命傷になるのです。
旧式ながら圧倒的な米艦隊に挑む
大正時代は比較的平穏に過ごした「扶桑」でしたが、太平洋戦争開戦時には既に旧式化。真珠湾攻撃やミッドウェー海戦には後詰めとして参加したものの、交戦機会はありませんでした。
ミッドウェー海戦で主力空母4隻を失った日本海軍は、「扶桑」を空母化する計画を打ち立てます。結果的に中止となるものの、一時は工期短縮案として、「伊勢」や「日向」のような航空戦艦化も検討されました。
既に海戦の主役は航空機に移り、他の戦艦より速力が遅く旧式の「扶桑」は扱いに困る存在でした。ミッドウェー海戦後は練習艦となり、輸送支援などの後方任務についています。
「扶桑」最後の戦いとなったのが、1944(昭和19)年10月18日に発動された「捷一号作戦」です。日本海軍はレイテ島へのアメリカ軍の上陸を阻止すべく、オトリの機動部隊(小沢艦隊)を日本本土から出撃させて敵の戦力を引き付け、その隙に主力部隊(栗田艦隊)と別動隊(西村艦隊、志摩艦隊)をレイテ湾に突入させ、艦砲射撃で上陸部隊を撃滅しようとしました。
「扶桑」は別動隊の西村艦隊の一員として、姉妹艦「山城」や重巡洋艦「最上」、駆逐艦「山雲」「満潮」「朝雲」「時雨」とともに、わずか7隻でスリガオ海峡方面からレイテ島を目指すことになります。
作戦を成功させるためには、主力部隊(栗田艦隊)と同時にレイテ湾へ突入する必要がありましたが、主力部隊はシブヤン海で米軍機の激しい攻撃を受けて進撃が遅延。そのため別動隊が単独で突入する形となり、40隻以上の圧倒的な艦隊で待ち構えるアメリカ軍の猛攻を受けてしまいます。
そして「扶桑」は砲撃戦を行うことなく、アメリカ海軍の駆逐艦から雷撃を受けて艦隊から落伍し、10月25日未明に沈没しました。
建造当初から問題が多く、活躍の機会も無かった「扶桑」ですが、建造で得られた教訓は2番艦の「山城」や伊勢型戦艦へ反映されていきます。試行錯誤の試みは、後に日本が世界水準の主力艦を建造するための貴重な経験となりました。