自衛隊の「災害派遣」は地震や台風などの「天災」のみならず、事故や事件など「人災」を受け出動することもあります。そのひとつに、かつて東京湾沿岸を20日間にわたり戦慄させた「第十雄洋丸事件」が挙げられます。
50年前に東京近傍で行われた艦砲射撃
今年(2024年)は防衛庁(現・防衛省)・自衛隊が発足してから70年の節目の年です。幾多の難題が我が国を襲いましたが、自衛隊発足からちょうど20年経った1974(昭和49)年に起きたのが「第十雄洋丸事件」です。
この事件は、炎上する大型船に護衛艦や潜水艦、自衛隊機が実弾を用いるという極めて異例なもので、戦後初めて武器を使用した災害派遣(船舶処分活動)として、防衛省・自衛隊にも記録されています
発災からちょうど50年の節目であり、改めて振り返ってみましょう。
起きたのは11月9日。プロパン、ナフサ、ブタンなど総計5万7000tを積載した「第十雄洋丸」と、大量の鋼材を積載した貨物船「パシフィック・アレス」が、東京湾のほぼ中央部、中ノ瀬航路でぶつかったのです。
「パシフィック・アレス」が「第十雄洋丸」の右舷船首側に突き刺さる形で衝突。後者に積載されていた可燃性の高いナフサに引火し瞬く間に大爆発を起こすと、両船は猛火に包まれました。この一瞬で「第十雄洋丸」側の死者は5名、生存者は34名、正面からナフサを浴びてしまった「パシフィック・アレス」側は死者28名、生存者1名という大惨事となります。
これに対し、海上保安庁の消防船と巡視船のほか、東京消防庁、横浜市消防局、民間の港湾作業船まで出動して懸命の消火作業が行われますが、ナフサは海上にも流れ出し、現場は文字通り火の海になります。さらに間の悪いことに、折からの強風にあおられて炎上する2隻は漂流を始め、横須賀方向へと流され始めたのです。
このままでは横須賀港に激突、陸上にも被害がおよびかねません。海上保安庁は未曽有の二次災害を前に、決死の覚悟で「パシフィック・アレス」を引き離し何とか消火。「第十雄洋丸」をえい航して千葉方面の浅瀬に座礁させることに成功しました。事故発生から10日後のことでした。
再びの大炎上と漂流
座礁した「第十雄洋丸」は、ここでナフサやプロパンを燃やし尽くす予定でしたが、それに沿岸の養殖業者などが反発。結局、炎上したまま太平洋上まで運び、そこで焼尽させることになったのです。
こうして太平洋へ向けて再度のえい航を開始、東京湾をぬけますが、目的地まであと少しのところで再びナフサが大爆発を起こします。これを受け、安全のためにタグボートはえい航を断念、えい索を切り離したことで「第十雄洋丸」は漂流を始めました。
火は船の全タンクに回り、大炎上。さらに黒潮の流れに乗って漂流を開始したため、危険性は前回の比ではありません。
海上保安庁は、これを甚大な災害とし、「第十雄洋丸」の処分を求めて自衛隊の出動を要請しました。こうして海上自衛隊始まって以来の、武器を用いた災害派遣が実施されることになったのです。
海上保安庁からの要請を受け、防衛庁長官(当時)より海上自衛隊へ出動命令が下されました。派遣されることになったのは、護衛艦「はるな」「たかつき」「もちづき」「ゆきかぜ」、潜水艦「なるしお」、そしてP-2J対潜哨戒機です。
計画では、まず艦砲射撃や爆撃により、タンクに穴をあけて、ナフサなどをすべて燃やし尽くします。その後、魚雷により船体に穴をあけて撃沈処分。この方法であれば強靭な特殊鋼でつくられたタンカーでもなんとか沈むのではないかと考えられました。
海上自衛隊による実弾射撃がスタート
最初の事故から2週間以上が経過した11月26日。最終調整ののちに前出した護衛艦らは燃える「第十雄洋丸」目指して横須賀を出港しました。27日に現場に到着。そこでは時折火柱を上げて燃え盛る「第十雄洋丸」がゆっくりと漂流し、その周りを海上保安庁の巡視船が監視しています。海上自衛隊のP-2Jと護衛艦「はるな」から飛び立ったHSS-2対潜ヘリコプターが状況調査に加わり、やがて艦砲射撃の準備が整いました。
まず、「第十雄洋丸」の右舷側に4隻の護衛艦が単縦陣(各艦が縦一列に並ぶ陣形)を組み、合計9門の5インチ(127mm)砲で一斉に射撃を実施。合計36発の砲弾は狙い違わず右舷外板に命中し大きな火柱が上がりました。
艦隊は次に左舷側へと移動、同じく36発を巨大なタンカーへ撃ち込み、計画どおり大爆発を起こすことに成功しました。その火柱は100mの高さにのぼり、黒煙は2500mにまで達したといいます。
翌朝、新たな攻撃が行われます。まず4機のP-2Jが高度1500mから急降下し、127mm対潜ロケット弾12発を発射。ロケット弾は甲板に突き刺さり、またも大爆発が起こります。次に、対潜爆弾16発を投下、これにより甲板に大きな穴をあけることに成功し、火災は一層激しさを増しました。
しかし、ここまで攻撃を受けても「第十雄洋丸」は沈む気配を見せません。
そこで今度は喫水線下に攻撃を加えるべく潜水艦「なるしお」が登場。Mk.37魚雷の発射準備に入ります。この魚雷はホーミング(音響探知)能力を持っていましたが、動力を使用せずただ漂流する「第十雄洋丸」に対しては、その誘導機能を活かすことができないため、「目標に対して発射する」という単純な方法で4発射出しました。
「不沈艦」相手に大苦戦! やがて訪れるその「時」
魚雷攻撃の終了後、3度目の艦砲射撃が行われ、さらなる大火災を起こすものの、「第十雄洋丸」は炎上しながらその姿を海面上に保ち続けます。ゆえに、「これは不沈艦なのでは?」と不安になる隊員もいたようで、自衛艦隊司令部も増援として呉で待機していた潜水艦「はるしお」に出動命令を出しました。
しかし、ようやくその「時」は来ました。潜水艦「はるしお」が呉を出港してすぐ、「第十雄洋丸」は数回の大爆発を起こし、後部甲板が沈み始めたのです。海中にいた「なるしお」も浮上し、すべての船がその様子を、息を飲んで見守りました。次々とタンクが爆発し、その火柱は300mを超えます。そして「第十雄洋丸」は、船首を天にかざすように屹立すると、大渦を発生させながら海底へとその姿を消していきました。
11月28日18時47分、衝突事故の発生から20日。ついに「第十雄洋丸」は、沈没したのです。
世界屈指の過密航路として有名な東京湾・浦賀水道。行き交う船の多さから「海の銀座」と形容されることの多いこの海域で、大事故を二度と起こさないよう、海上保安庁はその後、羽田航空基地内に特殊救難隊を発足させたほか、消防船や消防艇、えい航能力に優れた巡視船の整備を進めました。
また事件から約2年半後の1977(昭和52)年2月には、横浜市中区に「海の交通管制室」といえる東京湾海上交通センターが開設され、船舶交通の安全性及び効率性を向上させています。
その後、この種の海上交通センターは名古屋港、伊勢湾、大阪湾、瀬戸内海(備讃瀬戸と来島海峡)、関門海峡の6か所にも設置され、船舶の往来を日夜見守り続けています。