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「取り壊すな!」築105年の“木造駅舎”がそのまま残ったワケ 懐かしすぎる日本の鉄道風景 ←海外です

乗りものニュース 2024年12月21日 14時12分

台湾には多くの日本統治時代の鉄道駅舎が残りますが、なかでも「日本の懐かしい鉄道風景そのまま」という小さな木造駅舎が存在。地域は日本人との縁が深く、廃駅・取り壊しの危機に住民たちが立ち上がったのでした。

築105年「日本の小さな木造駅舎」が海外に

 台湾には、今から79年以上前の日本統治時代から続く建造物が無数に遺っています。当時の日本の役所や銀行、神社跡はもちろん、旧警察関連施設から一般家屋に至るまで無数にありますが、鉄道の駅もまた然りです。

 日本統治時代の駅舎としては台北、新竹、台中、基隆駅などが有名ですが、これらは比較的大きな都市の駅です。その一方、南部・屏東県の小さな町「竹田」にも、日本統治時代の小さな木造駅舎が遺っており、鉄道ファンや熱心な台湾ファンの間でつとに知られてきました。

 竹田駅は屏東県の中心・屏東駅から4つ目の駅です。1919(大正8)年に瓦屋根の木造駅舎が建設されました。

 もともと竹田駅は「頓物(とんぶつ)」という名の駅で、地元の米や穀物といった輸出用農作物の運搬拠点でもありました。1920年に地域名の「竹田」が駅名に使われ、今日に至っています。

 駅前には旅館や公共浴場などが存在した時期もありましたが、やがて竹田駅を介した農作物の鉄道輸送が減り、1990年代には“廃駅”の危機が訪れます。しかし、地元の人たちはこの歴史ある竹田駅を存続すべく奮起し、熱心な署名活動を行いました。また、この危機を知ったテレビ関係者や俳優たちが「竹田駅を残す」ために、あえて物語の舞台を竹田駅にするなどし、間接的に駅の保存を求めました。

 これらを受けた政府は廃駅計画を転換し、竹田駅周辺に人員を派遣したうえで公園を建設することとなります。竹田駅は存続され、結果的に木造駅舎もそのまま古跡として遺されることになったのです。

 地元の人の思いが有名人にも飛び火し廃駅計画を止め、そして政府もまたその声に歩み寄ったという良い話に泣けてきますが、結果的に日本統治時代の木造の竹田駅も、古跡として遺されることになったというわけです。

 また、竹田駅前は「竹田驛園」という公園になり、かつて存在した小さな公共浴場跡もそのまま遺されることになりました。駅そのものは、2015年までに高架化が完了し、近代的な高架駅舎の正面に旧駅舎などが立地しています。

駅の隣に「アジア最南端の日本語図書館」があるワケ

 もう一つ竹田駅周辺には泣ける話があります。

 竹田駅のすぐ隣には「池上一郎博士文庫」という小さな図書館もあります。ここは前述の鉄道運搬する農作物を一時保管するための倉庫だったのですが、後に図書館となりました。

 戦時中の1943年、竹田エリアに軍医として赴任した日本人医師・池上一郎氏は、地元の人たちと積極的に交流を深め、一時伝染病のマラリアが蔓延すると、高額の治療薬を入手し地元の人たちに提供。お金をいっさい受け取らず、特に地元の人たちに手厚い医療サポートをしたことで敬愛された人物です。

 池上氏の台湾愛は戦後、日本が台湾から撤退した後も変わることはなく、日本に台湾人留学生を招く支援活動をするなど、生涯を通して台湾を応援し続けました。そして生前に日本で集めた自身の蔵書約5000冊を竹田へ寄贈しました。

 2001年1月16日、池上氏の誕生日に合わせて、ここ「池上一郎博士文庫」が設立されました。台湾への思いが、「図書館設立」という一つのカタチになったその数か月後、池上氏は他界しました。

 この2つの話に目頭が熱くなるばかりですが、「池上一郎博士文庫」は事実上の「アジア最南端の日本語図書館」として知られ、竹田駅存続のエピソード、池上氏のエピソード双方によって台湾人・日本人双方の多くがここを訪れるようにもなりました。

 ただでさえ貴重な105年前建設の竹田駅の旧駅舎ですが、こういった話を知った上で訪れれば、より一層、感動につながるのではないでしょうか。

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