現在のスバルがかつて製造していたスクーター「ラビット」。生産終了から今年で57年にもなりますが、未だに熱狂的なファンが多く、専門ショップも存在するほどです。その魅力は歴史を知るとさらに深まります。
国産初の「鉄スクーター」ラビット
「鉄スクーター」と聞いてまず頭に思い浮かぶのはイタリアのベスパ、ランブレッタなどですが、かつては日本でもオリジナルの鉄スクーターが存在しました。
ラビット(富士産業・富士重工業)、シルバーピジョン(新三菱重工業・三菱重工業)、ジュノオ(ホンダ)などですが、その人気の筆頭はラビットです。
1946年から1968年までの22年間製造され、戦後の日本復興の象徴的バイクでもあり、生産終了から56年が経過した今なお、絶大な支持を集まるスクーターです。
今日も専門ショップも存在するほど、スクーターファンを魅了し続けるラビットですが、その魅力は果たしてどんな点にあるのでしょうか。ラビットの変遷を紹介しながら、35年以上ラビットを愛用し続ける、マニアの一戸英樹さんと一緒にその魅力に迫ります。
ルーツは軍用機の名門「中島飛行機」
戦時中、陸軍・海軍などの軍用機を製造していた中島飛行機は、戦後に「富士産業」という社名に変更。軍需がなくなったところで、収益を得るために取り組み始めたのが、軍用機製造の知見を生かした農機具、トラック部品などの製造でしたが、「乗りもの」として取り組んだのがスクーターでした。この点は、戦中に軍用機を作っていたピアジオが戦後にベスパを製造した経緯にもよく似ています。
富士産業では、戦時中に協力関係にあった他社の社長がコレクションしていたアメリカ製の鉄スクーター、パウエル・ストリームライナー・スクーターを参考に、1946から1947年にまたがってGHQの製造許可を得た上でまず試作をします。
この試作モデルはパウエル・ストリームライナー・スクーターにそっくりのスクーターでしたが、GHQの製造許可を得るためリアに大きな荷台を装着させ、「娯楽用ではなく、あくまでも物資を運ぶための道具だ」として許可を得て、市販モデル・ラビットの製造販売にかこつけました。
それで完成したのが1947年の市販モデル・ラビットS-1という4ストロークエンジンを搭載したもの。これこそが国産鉄スクーター第1号でした。
「ボディのリアの膨らみがうさぎの後ろ脚に似ている」ということから、「ラビット」という名が付けられ、以降21年にわたって様々なモデルを発売していくことになります。
日本的雰囲気のある「クルマっぽいバイク」
このラビットシリーズのうち4台とシルバーピジョン(三菱重工業)を所有し、35年以上愛用し続ける一戸さんはその魅力をこう語ります。
「僕がラビットに乗り始めたのは30年以上前のハタチくらいだったと思うけど、それくらいの年齢だと、まだクルマを買って維持できる経済力がないでしょう。でも、普通のバイクはそう魅力的に映らなかったので『クルマっぽいバイクってないかな』と思って知ったのがラビットでした。
もちろんベスパも知っていたけど、みんな乗っているし、国産のほうが良いなと思ってラビットを選びました。僕なんかよりずっと本気の先輩やマニアの方がいるから、エラソーには言えないけど、僕にとってのラビットは日本的な雰囲気があって、クルマみたいなバイクというのが一番の魅力に感じました」(一戸さん)
しかし、一戸さんがラビットに興味を抱いた35年前にして、すでに生産終了から20数年が経過。今のようにインターネットで様々なことを調べられるわけではなく、旧車・ラビットを探すのには苦労したとも。
「当時、唯一の手掛かりだったのが当時のバイク雑誌の『売ります・買います』コーナーで、そこで『ラビットを売ります』と出していた人にアポイントを取って」と一戸さん。そこでまずラビット・ジュニアS301というモデルを譲ってもらったそうです。
「情報がなかった時代だから、乗り方もよくわからず、2ストロークでオイルと混合させなければいけない、とかもわからずガス欠になって困ったりして。でも、元のオーナーがすごく親切な良い人で電話して聞いたら、すぐに僕の家まで2サイクルオイルをペール缶で持ってきてくれました。あれは嬉しかったです」(一戸さん)
東武練馬から広がった縁
以降、一戸さんはラビットの世界に深く入り込んでいくこととなり、お金を貯めては歴代モデルを次々と購入。その経緯の中で、ラビットのマニアの人たちとも知り合うようになり、全国のラビットマニアと草の根交流を図ることに。
「一番大きかったのは東武練馬にあるラビットマニアが集う喫茶店で、そこのオーナーさんが様々なマニアの先輩を紹介してくれて。もうその時代はパーツなんてメーカーから取れないんだけど、『川崎の▲▲さんなら持っているかもしれない』と聞いてくれて、本当に持っていて譲ってもらえたりとか。今はインターネットでそういう交流があるのかもしれないけど、当時はそういうマニアの先輩たちから色々教わったりして、かなり助けてもらいました」(一戸さん)
言い換えれば、「知らない人は全く知らないが、生産終了後も一定数のアツいマニアが存在し続けた」のがラビットとも言えそうです。
ラビットから始まった「スバル車」
話をラビットのストーリーに戻すと、ラビットを製造販売しヒットとなった「富士産業」は1953年に富士重工業へ改称(現・スバル)。その後、1954年にシリーズ初のトルクコンバータを採用したラビットS-61を発売。
続く1955年には初の2ストロークエンジン搭載のラビット・ジュニアS-71というモデルを発売します。実は、このラビットの2ストロークエンジンを元に開発されたのが1958年登場の軽自動車・スバル360でした。
1955年に通商産業省が掲げた「国民車構想」をそのままカタチにしたスバル360は日本の自動車史を語る上で欠かすことができない名車ですが、こういった名車を生んだ背景にあるのがラビットであり、だからこそ特別視され根強いファンを魅了し続けているようにも思います。
一般乗用車にシフト バイク製造に幕
さらにラビットは1959年に、199ccエンジン搭載のラビット・スーパーフローS601というモデルを発売。
また1961年に、123ccエンジン搭載の3速ハンドチェンジモデル、ラビット・ジュニアS301が登場。これが前出した「一戸さんが最初に乗った」モデルです。S301は、当時登場したばかりで革命的な存在だったスーパーカブC100以上のパワーを実現し、ラビットの中でも特にヒットしました。
しかし、この時代は三菱重工業のシルバーピジョンとの競争が激化した一方、富士重工はスクーターや軽自動車としてのメーカーではなく「一般乗用車にシフト」を目指すことになった時代でもありました。そんな経緯から、赤字というわけではなかったにも関わらず、ラビットは1968年をもって生産終了することに。
結果的に「富士重工業=ラビットや軽自動車のメーカー」というイメージは払拭され、1970年に登場したスバルff-1 1300Gをもって、1960年代までの富士重工業の面影をなくしていったように映ります。
言い換えれば、戦後の高度成長期を、実用・娯楽双方の面で支えてきたにも関わらず、「経営方針の転換」というだけで生産終了の憂き目にあったのがラビットとも思え、これもまたアツいファンが支え続けている所以だとも思います。一戸さんはこうも言います。
「そういうラビットへのアツい思いを持ち続ける本気のファンの方を前にすれば、僕が持っているラビットはどれもボロボロで恥ずかしい限りです。きっと笑われるんじゃないかな(苦笑)。でも、ピカピカにレストアしたラビットはもちろんカッコ良いですけど、ボロボロにヤレていてもなんだかかわいいのがラビットの魅力だとも思います」
一戸さん、今後も手放す気は全くないそうで、「少しずつ修理しながらこれからも乗り続けたいと思っています」と話します。