東京と千葉を結ぶ千葉街道は、「への字」を描くように不自然に北へと大きく遠回りしています。しかしこの不可解なルートのナゾをひも解くと、1000年以上昔まで遡ります。どうやら地形と関所が絡んでいるようです。
徒歩が主流の江戸時代以前で約2kmの遠回りはかなりの負担
東京と千葉市を結ぶ千葉街道(国道14号)は、不自然に北方向へと「への字」に大きく遠回りして不可解です。しかしナゾをひも解くと、「への字」の歴史は1000年以上昔まで遡ります。
都心から千葉方面に延びる千葉街道は、荒川の小松川橋を越えると、江戸川区内でバイパスの京葉道路(これも国道14号)と分岐します。左折した旧道の千葉街道は、北東方面へ一直線に進んで同区北部の小岩に達し、次はほぼ直角に右折し江戸川を渡り、千葉県に入ります。その後街道は、東京湾岸に沿って南東へと直進し千葉市に至ります。
一方の京葉道路はそのまま東進し、やがて有料道路(高速道路)に“変身”して船橋・千葉方面に向かいます。
東京~千葉間の移動を考えれば、明らかに京葉道路が最短で理にかないます。周辺はほんの半世紀前までは水田地帯で、道を迂回させる山はありません。にもかかわらず、旧道の方が、1960年開通の京葉道路よりも、わざわざ「ヘ」の字に曲がって約2kmも北へ遠回りするのは理解に苦しみます。
江戸時代以前の陸上交通は、徒歩と馬が主で、約2kmの大回りはかなり負担のはずです。なぜなのでしょうか。
千葉街道のルーツは1000年以上前の古代東海道
その理由を探ると、どうやら地形と関所が絡んでいるようです。
7世紀の飛鳥時代に、畿内(近畿地方)の大和朝廷は中央集権強化のため、「五畿七道」政策のもとで、街道(官道)の整備を全国で進めます。命令書の伝達(通信)や役人・兵士、物資の迅速な移動・輸送が目的です。特に軍隊が大急ぎで展開できるメリットは大きく、遠方の地方豪族の反乱を、いかに素早く平定できるかは中央集権化のキモでした。
畿内~関東間のルートとしては、太平洋沿いの「(古代)東海道」と、内陸部を横断する「東山道」の2本を設けました。
ただし当時の古代東海道には、まだ武蔵(現在の東京都、埼玉県と神奈川県の一部)が含まれず、東山道の管轄でした。
このため、畿内から相模(神奈川県)に達した古代東海道は、三浦半島から浦賀水道を船で渡って房総半島に上陸し、東京湾沿いに北上し、市川の北総台地にある下総国の国府(現在でいう県庁所在地)に達するルートでした。
市川~船橋間の現在のJR総武線以南の土地は、当時広大な泥の干潟で、歩くのには不向きです。幸運にも干潟と北部の北総台地の間には、大きな「市川砂州」が北西~南東にほぼ一直線に形成され、ここに古代東海道を通すことができたのです。
城東地区は見渡す限りの干潟だった
8世紀末には、古代東海道が遠回りで不便との苦情が増え、ついに武蔵を古代東海道の管轄に鞍(くら)替えします。
新ルートは相模を北上し、武蔵の国府(東京都府中市)で右折して東に進み、現在の隅田川・白鬚橋辺りに到達します。ここで渡し舟で川を越え、立石(たていし。葛飾区)~小岩~市川と、ほぼ直線で古代東海道は整備されます。
ただ当時、隅田川以東の城東地区は、市川~船橋間の臨海部と同様に、広大なデルタ地帯でした。このため散在する小高い砂州を頼りに、いくつも小橋を架けて街道を造ったようです。これより南の地域は、もはや遠浅の海で街道は通せなかったため、否応にも北の方向に大きく迂回せざるを得なかったようです。
ちなみに「センベロの街」として有名な立石ですが、古墳時代(3~6世紀)に有力豪族がこの地に築いた古墳から、平安時代に房州産の石材を拝借し、街道の道標として立てたのが由来のようです。
17世紀に徳川幕府が成立し、五街道が整備され、北に向かう日光道中(街道)と奥州道中が設けられます。ただし幕府は江戸防備のため、隅田川に架ける橋はこの2街道が通る(千住)大橋だけとし、例外は認めませんでした。
両国橋が架かり「への字ルート」が誕生
水戸徳川家の江戸へのアクセスや、房総の諸大名の参勤交代に使う「水戸佐倉道」も、立石~市川間の古代東海道を基に整備されます。
ただし上記の防備の理由から、隅田川の渡し船の利用は廃され、日光道中と合体しながらいったん北上して大橋を渡り、千住の宿場町で水戸佐倉道は枝分かれし、綾瀬(足立区)~新宿(にいじゅく。葛飾区)と東進します。この辺りで水戸街道と分岐し、「佐倉街道」と改名して小岩に到達し、その先は古代東海道の経路をたどります。
江戸川には「小岩・市川の渡し」が設置されますが、江戸防衛のためこの川も架橋を厳禁とし、この渡しにも関所が設けられるなど厳重でした。しかし江戸~房総間を結ぶ街道としてはあまりにも遠回りで、参勤交代する房総の諸大名や商人に不評でした。
江戸時代には隅田川以東のデルタ地帯は、開拓や埋め立てで急速に陸地化が進みます。さらに1657年の明暦の大火を機に、隅田川に2番目の橋、両国橋が架かります。
するとこれを合図に、江戸~千葉間をはるかに短く結ぶ“ショート・カット”の「元佐倉道」が造られます。両国橋から現在の京葉道路とほぼ同じルートで、亀戸(江東区)を経由して千葉街道に通じる道筋です。
農民や町人などは、便利な元佐倉道をこぞって使うようになります。また、参勤交代の際に旅費が大幅に節約できるとの理由から、やがて諸大名の参勤交代にも限定的ながら使用が許可され、主要街道として頭角を現し始めます。
陸地化したのだから、京葉道路のように千葉に向かって一直線に東進すればいいのでは、と思うかもしれません。
徳川幕府は江戸防御と治安維持のために関所を重要視し、江戸川に橋が架かるのは明治時代に入ってからでした。もちろん他に渡し船が数か所ありましたが、これらは全部地元農民専用で、他の人の利用を厳しく取り締まったようです。
こうしたことから、元佐倉道は亀戸辺りから、小岩・市川の関所目がけて、北東方面にまっしぐらに進んだ結果、実におかしな「への字型」の街道となってしまった、というのが真相のようです。