今や自動車の標準装備となっている「エアバッグ」。日本で初めての国産エアバッグはホンダが開発したものでした。しかし、ここに至るにはじつに16年もの歳月と、技術者たちのアツい思いのこもった物語があったのです。
1台につき家一軒分相当の額の実験車両を何台も潰す日々
クルマのエアバッグは、もともと航空機パイロットを守る技術として1963(昭和38)年に発明され、1970年代前半にはキャデラックやビュイック、また1980年代前半にベンツなどの高級車に搭載されるようになりましたが、1980年代中盤までは世界的に見てもエアバッグに対する関心はそう高いとは言えないものでした。
そうしたなか、この画期的な安全性能に注目したホンダは、自動車安全部品メーカーの高田工場(後のタカタ)と共同で、ホンダは1970年代前半よりゼロスタートでエアバッグ開発に着手。「安全システムの誤作動は絶対に許されない」とし、結果的に16年もの歳月をかけて実験を繰り返し1987(昭和62)年に国産車初のエアバッグを開発。これが、今日では定番のエアバッグシステムの先駆けとなりました。
研究開発を始めてからの最初の10年間は劇的な成果を上げることができなかったといいます。この間、1台につき家一軒分に相当する額の実験車両を何台も何台も衝突させては潰す研究を重ねました。膨大な費用と時間をかけたにも関わらず、劇的な成果を上げられないまま、十数人いた研究チームは、一人、また一人と姿を消し、最終的にはわずか4人に減ってしまったのです。
やがて、「国内外の他社もエアバッグ研究開発から撤退したらしい」という噂が流れ、ホンダ社内でも「その研究まだやってんの?」といった冷ややかな声が囁かれるようにもなったといわれます。そして、残された4人の研究者たちの元に、ついに「研究を中止せよ」の命令が。
ここまで身を削って研究開発に勤しんできた4人の研究者たちは、当然「はい」とは言えません。これだけ膨大な費用をかけていることだけでなく、各研究者たちにとっても人生の何分の1かの時間を費やし真剣に取り組んできたからです。
4人の研究者たちは上司と押し問答。その末に「必ず完成させてみせる」と研究続行の許可を獲得しました。
このとき、実は上司はもとからエアバッグ開発を「中止させる」意向はありませんでした。あくまでも、4人の研究者たちのエアバッグ実現にかける情熱を推し測るために「中止せよ」と伝えたのでした。その熱い思いに気づいた4人の研究者たちは、さらに奮起し、実験・研究を重ねていきます。
「お前たちが使う金くらいでホンダが潰れるわけがない。絶対に諦めるな」
それでも、そこから数年経過しても劇的な研究成果は上がりませんでした。さすがに「会社に申し訳ない」と思う4人の研究者たちでしたが、そんな彼らに研究所の所長が放った一言はこうでした。
「お前たちが使う金くらいでホンダが潰れるわけがないだろう。絶対に諦めるな。必ずエアバッグシステムを実現させろ」
そんな叱咤激励を受け、ついに4人の研究者たちは研究開発を始めてから16年の時を経て、自分たちに課した「極限の信頼性」を持つエアバッグシステムを実現。その信頼性はなんと99.99999%。世界でも例のない数値であり、100万回に1回の故障率という極限の信頼性を達成。1987年にホンダのレジェンドに初搭載させ、これこそが国産車初のエアバッグシステムになりました。
以降、ホンダが開発したエアバッグシステムは世界中の自動車メーカーに影響を与え、1990年代以降、急速に普及。ご存じのとおり、今日ではクルマの安全機能として定着しました。
また、このエアバッグ開発以降も、ホンダは独自のシステムを続々と開発していきます。1990(平成2)年には「フロントウインドウに沿うように展開する、トップマウントのエアバッグシステム」を助手席用に開発。のちには多くの自動車メーカーがこのトップマウント式のエアバッグシステムを採用するようになりました。
1998(平成10)年には、衝突速度によってエアバッグの展開速度が変わる「2段式インフレーター」や「サイドエアバッグ」を開発。さらに2002(平成14)年には「サイドエアカーテンエアバッグシステム」を、2008(平成20)年には運転席に乗る人の様々な体格に対応する「連続容量変化タイプのエアバッグシステム」を開発。
後には「二輪車用」や「事故の際の歩行者の衝撃を和らげるポップアップフードシステム」なども開発し、今日も安全性能を高める技術が惜しみなく投入され続けています。
その礎となったのは言うまでもなく、16年もの時間と膨大な費用を費やし開発を続けた4人の研究員の魂と、それを密かに励まし続けたホンダの体制でした。現在、多くのクルマに搭載されている国産車のエアバッグシステムには、開発時のホンダに、このような情熱が詰まったアツい秘話がありました。